2017.06.24 Saturday

■映画批評:「ちょっと今から仕事やめてくる」 〜目の付け所だけで、「命の物語」パートは余りにお花畑(30点)

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    そもそもブラック企業の問題は、複合的な社会要因が絡まって生じている問題であるため、そう単純に語りきれる類の話では、実はない。
    ぱっと考えても、マクロ経済的要因、あるいは産業構造的要因、生産性の要因、日本企業の労働観の要因、過剰なサービス訴求という社会要因…と、このくらいの理由がすぐに挙げられるだろうし、しかもいずれにおいても根の深い問題ばかりだ。

     

     

    のっけから小難しい話で申し訳がないが。

    確かにアベノミクス以降、企業の売上は上昇している。
    しかし問題は、売上ではなく企業の収益が上がらないことにこそある。
    尤もそれは至極当然な帰結であり、大体、アベノミクス的な金融政策と円安誘導、法人減税で企業売上が上がらないわけがないのだ。
    だから地方への設備投資は進まないし(だから地方の雇用問題はずっと深刻なままだし)、実質賃金の上昇もそうそう進まない(俗に言うコストプッシュインフレ、てやつだ)。
    加えて言うなら、日銀による金融市場での需給ギャップは解消されたものの、「政治」の仕事である成長戦略は、今なおクソばかり。これでは産業構造改革など到底かなうわけがない。
    (無論、そこには日本経済のサプライサイドの生産性問題と社会保障の問題が被さってくるのだが)
    さあ、長いデフレによる低成長、低収益で賃金上昇もままならない。依然パイはいっそう小さくなるまんま。これじゃ企業における雇用問題なんて改善されるはずがないではないか。
    まずは、これがブラック企業を温床化させている、最もマクロ的目線から見た日本社会の経済的要因だ。

     

     

    もう少し細かく見てみよう。

    さらに、ここ20年強で「終身雇用」や「年功序列」といった戦後経済成長期の雇用システムが完全に幻想として消えうせ、長期安定雇用が不安視されるようになる。
    (尤も、よく言われることだが元来的に「終身雇用」などは一部大手企業における幻想でしかなかったのだが)
    結果、グローバル化により単純労働の担い手を非正規雇用者にまかせるとともに彼等を人件費削減により使用し、一方で長期安定雇用不安をダシにしてホワイトカラーも「実力主義」という縄を首にかけられ労働を強いられることになった。

    無論その裏には、存続のためにコストカットやサービス残業を余儀なくされている企業の実情というのもあるだろう。実際問題、赤字決済で経営破綻をまぬがれるには、正社員の労働力を酷使するのが最も簡単だ。

    恐らく同様の悩みは、日本の企業の大半を占める中小企業なら、どこでも少なからず抱えていることだろう。

    しかもこうした中、「契約」概念がキリスト教圏に比べ未熟な日本社会においては、企業側が強力な職務権限をもつ雇用契約形態となっていることを何故か許してしまっており、そこに歯向かうことが現実的に難しい状況となっている。

    つまりこれによって安定的な雇用保障というエサをブラつかせ、過酷な業務を追わせることがたやすくなっている、ということだ。

     

    更に言うなら、市場の問題もあるだろう。

    長引くデフレの中で、日本では低価格、過剰に高いサービスが当たり前となってしまった。

    その結果、そのサービスを満たすために労働時間は自ずと長時間化し、ブラック企業が跋扈することになる。

    いや、「ブラック企業」などというラベリングはさておき、とどのつまりが(企業規模の大小に限らず)日本企業のいずれもがもれなくブラックな要素を構造的に孕んでいるし、そういう社会に我々は生きている、ということだ。
    そもそも論にもなるが、往々にして日本のこの社会は敗者に再チャレンジを与えない作りになっている。
    この問題は先のような経済事情の影響からか数十年前よりさらに深刻化しており、レールからこぼれることへの不安、パイを奪い合って「うまく生きること」の社会的要求はさらに上昇する一方である。
    このことはブラック企業社員のメンタルをがっちりと捉えており、この会社をやめたら次がもうない、イコール人生失敗だ、という恐怖となってとりついている。この映画にも描かれている通りだ。

     

     

    20170624 01

     


    (以下あらすじ)
    激務により心も体も疲れ果ててしまった青山隆(工藤阿須加)は、意識を失い電車にはねられそうになったところをヤマモト(福士蒼汰)と名乗る男に助けられる。
    幼なじみだという彼に心当たりのない隆だが、ヤマモトに出会ってから仕事は順調にいき明るさも戻ってきた。
    ある日隆は、ヤマモトが3年前に自殺していたことを知り……。
    (あらすじここまで)

    「YAHOO映画」より

     

     

    20170624 02

     


    さて。
    そんなわけで、逆に言うなら「ブラック企業」を描くことは、日本社会の様々な問題を描くことにもつながっているということになる。
    そういう意味でも、本作の当初における目の付けどころは、そんな悪いものではなかっただろう。
    描こうと思えばその先に材料が幾らでもある。このことは、上の通りちょっとばかり論点を軽く論えただけでも十分に見渡せるだろう。
    そして、結論から言うなら。
    本作最大の不満は、それをただの「命の物語」という情緒にあまりに傾きすぎたたため、社会への冷徹なまなざしを得られなかったことである。
    要するに、この作り手はそうした社会的な問題意識に対し、致命的なまでに疎く、絶望的なまでに興味がなさすぎる。

     

     

    …などといささか手厳しく評してしまったものの、前半はさほど悪いものでもない。

    たかが「会社」の問題を、人生の問題、人間の問題と捉え違えてしまう。
    たかが「会社」の問題が、自らの否定や絶望と捉え違えてしまう。
    こういう経験は、社会人なら誰にでもあるはずだ。
    過酷なブラック企業の実情は、なんとも迫るものがあるし、ブラック企業ならずとも何処にでもいるパワハラ上司、やりすぎ上司をもった身の辛さは、共感にやまないところがあるだろう。
    決して他人ごとと見ていられない、会社員の身ならば、本作を前にしてきっと多くの者がそう思うはずだ。
    展開上における多少(=相当)のわざとらしさ、くどさはこの際許容するとして、そんなブラック企業に摩耗され追い詰められていく主人公に対し、「ちゃんと眠れているか」と尋ね、案じてくれる友人の存在の重要さは、頷くところも少なくはない。
    本来的に包摂性を求めるべきではない「会社」組織への過多な帰属、承認欲求が、しかしブラック企業を利する結果になっている。
    これに対するカウンターは、私生活圏内における包摂性の調達にほかなるまい。
    その意味からも、「友人」や「家族」といったプライベート空間での包摂の確認こそが、誤った自己否定から逃れる道である。
    ここには確かに賛同もしよう。

     

     

    しかし、である。
    「命の物語」を余りに本作は寄り添いすぎたため、そこに描けるはずだった様々な題材に全く触れずじまいになってしまった。
    いや、そういう方向性なのだ、というなら百歩譲って、それでもまだよしとしよう。
    では、「命の物語」でかくして至った結末が、余りにイノセントなのは一体どういうことか。


    成る程、確かにそこに見出そうとした、「本当の豊かさとは何か」という社会意識は評価出来ないわけでもない。
    世界屈指の先進国である日本の社会が、何故これほどまでに豊かさを実感できないのか。
    およそ数十万人の大人は、ほぼ鬱病予備軍であるという異常な社会、それが現代日本というこの国の実態であるという事実、
    恐らくこのラストはその現実との対比を描こうとしたのであろうが、にしてはあまりに短絡的ではないだろうか。
    そして短絡的になってしまったのは、やはり作り手におけるそれらへの意識不足、とどのつまりは勉強不足に他ならない。

     

     

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    (以降ネタバレ注意)


    「周囲に流されて」入社したブラック企業を辞めた主人公は、また「周囲に流されて」外国に、それも自然の美しいベッタベタな後進国に「自分探し(笑)」に出る。

    正直言って、ぼくはこの陳腐な流れに少々、いやかなり辟易させられた。

     

    本作品内には言い訳程度にしか映されていないが、この国の現実だって当然ながら決して「希望の楽園」なんかじゃ全くないだろう。
    それどころか日本のような先進国にはない、貧しく過酷な社会が待っていることは容易に想像がつく。
    それも映さず、笑顔と美しい自然だけを映してノンキに、


    「でも、笑顔だけは日本より美しい」
    「本当の豊かさはここにある」

     

    などとは説得力皆無、短絡さここに極まれりとしか、いいようがない。

    はっきり言えば、このラストは余りにお花畑でお粗末、そして余りに無責任だ。

     

    なぜならば。
    突き詰めればこのラストが実は語っていることは、日本社会で生きることへの「希望」の見えなさでしかないからだ。
    これはつまり、観客を励まそうとして作ったこの物語は、それとは逆に絶望の提示にすら機能している、ということだ。

    エールを送ろうとした結果が、諦めろ、という現実の突き付けだという身も蓋もなさ。

    或いはそのつもりがないのかもしれないが、しかしここら辺の皮肉的なまでのアンビバレンスを、一体作り手はどう捉えているのだろう。
    出来の悪い映画、とまでは言わないが、しかしその自覚のなさが生んだ薄っぺらさがなんとも残念だ。
     

    2017.06.17 Saturday

    ■漫画評:「東京タラレバ娘」8巻 〜どこまでいってもシンデレラ・ファンタジー(70点)

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      20170617 04

       

       

      こんないい年こいたおっさんに言われて誰も喜ぶまいが、ぼくは三十路女子が好きだ。
      こう見えて節操は割と…なんてワケもなく見た目どおりに無いことに自信があるほうなので、二十代女子だって当然に嫌いなわけが全くないのだけど、しかし、である。
      三十路女子には、彼女ら二十代女子にはない大人としての配慮や知性、コミュ力、振る舞いや作法、趣味や話題、色気と図々しさ、じゃないたくましさとそれが故の可愛さ…。
      ま、要するに、最終的に未熟な子供でしかない二十代(「でも若さってそれだけどね」といつも思うけど)に比べて、圧倒的な人間力というか、「大人」として互いに認めあい、尊敬が成立する関係性の上で、そこで「異性」として存在し得る成熟性を彼女らは備えている。
      …ばかりの方々ではないし、随分とこじらせてしまっている方もおられるようなので、あくまでこれはぼくの周囲の話でしかないのかもしれない。
      が、それでもぼくは、そんな大人の女子としての三十路女子が、好きである。
       

       

      さて、そんな独身三十路女子をモチーフにしたのが、この作品だ。
      10年くらい前からだろうか、
      この手の「毒女」モノ、少し前に呼ばれた言い方なら「負け犬」モノは、ある一定のニーズへの需要物として出されてきた。
      よって本作は、「満を持して」といえば聞こえは良かろうが、寧ろ「ありふれた」タイミングで世に出された類の漫画作品といえるだろう。
      なお、個人的にこの東村アキコという漫画家を知ったのは「ママはテンパリスト」からだ。
      そしてこの「ママは〜」については、漫画として「面白い」と頷ける反面、どこか釈然としない違和感を覚えていたことが印象深かったりする。
      このことについては当時どこかで書いた気がするが、一見コミカルな様相のこの作品は、しかしその実よくよく見てみれば、そこには「父性」が一切除去されており、というか徹底的に無視されているとすら映りかねない程の不在ぶりであり、ゆえに作者の子供に対する「ママ」=「母性」の当事者的な囲い込みに余りに強烈に満ち溢れた作品であった。
      よって作品からは確かに我が子への深い愛は感じるものの、しかし冷静な客観性というか、言ってしまえば「聞く耳を持たない」といった独善的な、何ともいいようのない危うさを孕んで成立していた。
      後に調べれば、成る程、その「危うさ」や「違和感」の正体とは、彼女のシングルマザーの育児への苦しみだったのか、と納得が出来るし、作品自体も本来は、そうした実情をグチったり笑い合える「ママ友」的なものに向けて開かれた作品だったのかもしれない。
      だとするなら、確かにそこでは「父性」なんてものは余計な邪魔者でしかないし、一方「子供」だってそんなダベりのたかがツール、ネタでしかないのだろう。
      そして考えてみれば、この作者の作品、というか作家性は、元来的に、そうした開かれない同性達、例えば「ママ友」や「女子会」、「女子ヲタサー」といったものに象徴される限定的な対象に向けられてこそ魅力を発揮するタイプなのではないだろうか。
      (無論、あくまでそれは本質論であり、またそれでいていずれの作品〜今回取り扱っている「東京タラレバ娘」然り〜においても、閉鎖的どころか一流漫画作家らしい高い娯楽性とクオリティがしっかり保持されているのだから、大したものであるが)

       

       

       

      さあ。そんな彼女が、「海月姫」を経て至った新境地が、この「東京タラレバ娘」である。
      ちなみに、「タラレバ娘」とは、「あのとき、こうしてい"たら"」「こうしてい"れば"」と、「タラレバ」ばかりを女子会という居酒屋ダベりでグチりまくる、おば、いや独身三十路女子に向けた呼称のことであるそうだ。
      (ちなみに、個人的に多くの三十路女子についてぼくは「おばさん」などとは、全く思っていないし、若い可憐な女子だとすら思っているが)

       

       

      20170617 01

       

       

      さてこの作品、

      勿体ぶらずに結論から言ってしまうなら、所詮はただの「シンデレラ・ファンタジー」、でしかない。
      畢竟、どこまでいっても「シンデレラ・ファンタジー」。
      そう、本作は「シンデレラ・ファンタジー」をしくじり、こじらせた「タラレバ娘」=独身三十路女子による、「オルタナティヴなシンデレラ・ファンタジー探し」の物語である。

       

       

      20170617 02

       


      本作の主人公らは、しばしば「現状」と「シンデレラ・ファンタジー」との距離感、解離さを計っては、右往左往する。
      というのも、彼女らはそもそも「現実」に対峙しているわけではない。
      彼女らが対峙しているのは、「現実」ではなく、寧ろ「ファンタジー」のありようだ。
      本作について(アラサー、アラフィフの)「リアリティ」なる表現を持ち出す輩は、得てしてこのポイントを軽んじている。
      つまり、本作の「リアリティ」は、「現実の三十路女子そのもの」に向かれているのではなく、「彼女らが抱いているファンタジー」とその実情に向けられているに他ならない。
      だから本作は、どこまで行っても所詮は「シンデレラ・ファンタジー」なのである。
      もっと言うなら、とどのつまりが本作は、三十代女子向けの少女マンガだ。
      そう、ある登場人物が主人公につきつける「少女漫画」という台詞。
      自覚的なのか無自覚なのか、その言及自体があまりにも実に自らの本質を語っているではないか。
      「夢見るおばさんに向けた少女漫画」と、そうキャラに言わせながら、しかし本作自体はまさにそれをなぞり、突き進んでいるというこの皮肉なほどのメタ構造はどうだ。
      言い方を変えれば、本作は少女マンガに「リアリティ」を注ぎ込むことで、オルタナティヴな少女マンガを標榜している。
      そう、だからこれはどこまでいっても「シンデレラ・ファンタジー」なのである。

       

       

      20170617 05

       

      (何という痛々しい自己言及!)

       

       

      ここまで述べれば、本作が向いている方向性がよく判る。
      何もこの作品は、別にここにいるようなぼくらおっさん達に開かれているわけではない。
      向けられているのは、「オルタナティヴなシンデレラ・ファンタジー探し」という信仰が共有、少なくとも理解できる、全国の「シンデレラ・ファンタジー」消費者の方々に他ならない。
      勿論、漫画作品としては十分開かれているし、面白いとも思えるのだが、しかしそれでもやはり言ってしまえばあとの読者はあくまでその傍観者、まあ有体に言えば野次馬、だ。
      いや、だからこそ野次馬としてぼくらは本作を面白く笑い飛ばせるのだ、あるいはそうともいえるのかもしれない。

       

       

      20170617 03

       

      (これは染みるわあ…)

       

       

      閉じた作家性に支えられた、「どこまでいってもシンデレラ・ファンタジー」。
      つまればここでの「タラレバ」とは、そんなファンタジーに消費者をひきこみ、またそんなファンタジーを「どこまでも」行かせるための可燃剤として語られ続けているのである。
       

      2017.05.14 Sunday

      ■書評:「みかづき」 /森絵都 著 〜やはり「教育」とは「生きる、とは」ということを教えることだ(80点)

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        「教育」とはとどのつまり「生きる」こととはどういうことかを、教えることである。

         

        以前ぼくは、映画「チャッピー」に触れてこう書いた。

         

        ■映画批評「チャッピー」 〜「教育」とは、「生きる、とは」ということを教えることだ(88点)


        この意見は恐らく、根本的にそう間違ったものではないのだろう。
        しかしこれが人の親というものなのか、では果たしてぼく自身が本当に息子や娘達にそれを遂行しきれているかと問われると、途端に自信が心もとなくなってくる。
        と、同時に。
        一方で、そんなものは敢えて何かを意識的に話し伝え、意図的にどうかするといった類のものでも恐らくないのだろうなといった、ある種の開き直り、言い訳、諦念、よく言えば悟りにも似た実感を強く覚えるのも、また事実である。

        有り体に言うなら、オヤジの背中を見てりゃいい、ってやつだ。
        「家族」が同じ空間をともに生き、その中で「親」の生きる様相を眺めながら、それを見て「子」が生きようとする。
        どのように。
        どうやって。
        どこを。
        だれと。
        なんのために。
        どんな思いで、どういう意図で、どんな選択をし、そしてどうなるのか、それを自身はどう思うのか…
        そうしたものの幾度にも、幾度にもわたる積み重ねこそが、「生きる」とはどういうことかを教える、伝達する、ということにつながっていくのだろう。
        今のところぼくが我が子らを、なかんずく思春期に突入しながら大人になりかかろうとしている息子を見ながら思うのは、せいぜいそのくらいのことでしかない。


        少々前置きが過ぎたか。
        そんなことをふと改めて考えさせられたのは、この本を読み終わったばかりだからである。
        本作は、「教育」、「塾」に関わり生きる、ある家族の物語だ。

         

         

        20170514 01

         

         

        (あらすじ引用ここから)
        昭和36年。小学校用務員の大島吾郎は、勉強を教えていた児童の母親、赤坂千明に誘われ、ともに学習塾を立ち上げる。
        女手ひとつで娘を育てる千明と結婚し、家族になった吾郎。
        ベビーブームと経済成長を背景に、塾も順調に成長してゆくが、予期せぬ波瀾がふたりを襲い――。山あり谷あり涙あり。
        昭和〜平成の塾業界を舞台に、三世代にわたって奮闘を続ける家族の感動巨編!
        (あらすじ引用ここまで)

         

         

        戦後から現代までの学校教育や塾の業界の移ろい、そこでの問題、実態などを、代々教育に関わる親子三代の生き様とドラマを通じて、知る。
        例えば、塾への世間の見方、詰め込み教育への疑念、ベビーブームで過剰にヒートアップする教育産業、エリート育成を主目的としたゆとり教育、格差社会の中でこぼれ落ちる子供達…。
        或いはこれらは一面的な見方なのかもしれないが、それでもこうした時代時代の主要な教育問題に深く触れるとともに、主に子をめぐる戦後日本社会の時代的変化をかみ締めるといった社会性ある味わいも、本作の大きな醍醐味であるだろう。

        学校教育を表舞台の「太陽」になぞり、それに替わって夜を照らす「月」としての塾。

        その相互の時代要請の移り変わりと関係性への捉えようを読んでいくだけで、本作は十分な読み応えを備えている。

         

        加えて、人の視点が変わればドラマも変わる。
        これまで見えなかったものも、無論見えてくるようになる。
        その変化から教育問題への姿勢、時代背景をも映した塾のあり方、さらには家族の人間像や子への捉え方などもまた違って見えてくるのも実に一興だ。
        然るに、「家族」といえど、違う「人」である。
        そして「人」は、それぞれ異なる道を、異なる意思で、異なる価値観に則り、生きている。
        ともに歩んでいるように見えて、しかし「人」は所詮自身の生きる道しか生きられない。それは「夫婦」や「家族」、「親子」もまた同様の事実だ。
        だから家族とはいえ、彼ら各々の目線となると、それは自ずと違った生き方を、「生」のドラマを描くことにならざるをえない。
        そう、本作が秀逸なのは、ここである。
        結果。
        「家族」は、いつまでも同じ道を進めるわけではない。

        夫婦の離別、或いは価値観のズレ、或いは子の独り立ち、或いは死去、或いは関係性のこじれ、確執、等々…。

        だが、当然それらの帰結が必ずしも悲劇に至るとは限るまい。
        何故なら違った道の選択こそが、彼らの「生」を輝かせることにもなり得るからだ。
        そしてそんな離れ生きる姿こそが、「子」に「生きること」を伝えるすべにもなり得るからだ。
        さてここで、先日「罪の声」評に書いた事柄が、再び浮上してくる。
        いわく、「家族」とは強固な別々の「道」同士の交わりである、と。
        「子」がそんな「親」の姿を、生き方を、つまりは「道」を見て、そして何を学び、どう巣立ち、離れ、己が道を交差点から離れて「生きる」のか。
        彼らだけの生き方を、自らの解として、自らの「生」としてどう向かい合い、自らのものとするのか。つまりは、自らはどう生きるのか。
        これこそが、本作のドラマチズムを生き生きと脈動させている、最大のポイントに他ならない。

         

         

        20170514 02

        拾いもの相関図)

         

         

        (ネタバレ注意)
        かくして孫の一郎は、ようやく「自分の頭で考える」ことの意味にいたる。

        彼の解とは、以下の通りである。
        「教育は、子供をコントロールするためにあるんじゃない。
        不条理に抗う力、たやすくコントロールされないための力を授けるためにあるんだ」
        そう、

        自らの「生」の道を選ぶことが出来るよう導き、「生きる」とはどういうことかを教えること。
        「教育」の要訣とはやはり、そこにあるのだろう。
         

        2017.05.07 Sunday

        ■映画批評:「美女と野獣」 〜男子おいてけぼりな、女子のために存在するプリンセス映画(50点)

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          娘が見たいというので、一緒に見てきたよ、噂の「美女と野獣」。
          判ってはいたけれど、
          ザ・ディズニー!
          ザ・デート映画!

          でしたなこりゃ完全に。

           

           

          20170507 01

           

           

          引用ここから)
          進歩的な考え方が原因で、閉鎖的な村人たちとなじめないことに悩む美女ベル(エマ・ワトソン)。
          ある日、彼女は野獣(ダン・スティーヴンス)と遭遇する。
          彼は魔女の呪いによって変身させられた王子で、魔女が置いていったバラの花びらが散ってしまう前に誰かを愛し、愛されなければ元の姿に戻ることができない身であった。
          その恐ろしい外見にたじろぎながらも、野獣に心惹(ひ)かれていくベル。
          一方の野獣は…。
          引用ここまで)

           

           

          大ヒット・ディズニーアニメ「美女と野獣」を、実写化。
          しかも主役は、かの「ハリポタ」のハーマイオニー役というパーフェクト可憐美女エマ・ワトソン。
          豪華なミュージカル仕立て、派手な演出の舞踏シーン…
          と、女子のときめきを詰め込みまくった、GW映画の真打たる本作。
          四の五の言わずにいいからデートに使え、娘連れてっておけとばかりの、何だか批判してはいけないような女子優先空気が満載だ。
          そもそも、獣を美女が好きになったら実はイケメン王子様でハッピー玉の輿(※1)というストーリー自体、まさに女子の妄想と欲望、おっと失礼、憧れ以外の何者でもないだろう。
          そう、元来「美女と野獣」とはあくまで「女子のためのもの」であり、そこに男子が入る余地などそうはないのである。

          というかそもそも設定やストーリーからしたって、どう考えたって男子の共感なんか得られるように作られていない。
          なので、今更ながらこの作品に対し、「はいはい、ただしイケメンに限る、ね」だの、「獣のままのほうが本当の愛だって映るんじゃねーのwww?」だのといった、みんな判ってるけどあえて言わないような嫉妬めいた皮肉を向けるのは器量の底が見えてあまりに格好悪いというもの。
          ましてや男子は、「この程度で獣を好きになるかねー」だの「これ所謂ストックホルム症候群じゃん」などと口走った次の瞬間から、その独りよがりに放ったドヤ顔が貧相な非モテの極みにしか映らなくなることうけあいだ。
          ディズニー映画なんだから、これはもう、そういうもの。
          そう割り切って、目くるめく一大スペクタクルな映像とまるで目の前で繰り広げられているようなミュージカルを素直に楽しんだ後、横の女子に「今度、ディズニーランドに美女と野獣エリアが出来るらしいよ」などと次のデートの約束を取り付けておくのが正しい姿勢というものだ。

           

           

          20170507 02

           

           

          よってさほど批評めいたことを書くつもりもなかったのだが、かといって触れておきたい点がないわけではない。


          まずは村一番の屈強者である、悪役のガストン(ルーク・エバンス)。
          アニメ版でもそうだったのかさして覚えてもないのだが、このキャラ設定が笑えるほどに典型的なアメリカ的マッチョイズムに溢れているのである。
          戦争好きで腕力自慢、アタマはからきし弱いが、しかし弁は立つ。結果、皆の信頼を得ており、勝負に勝つのはいつも彼。だから俺こそが、正義。
          フランスの農村を舞台にしながら、こんな自覚的な悪役が出てくるのがいかにもアメリカ映画だと苦笑を覚える一方で、このバカなアメリカン(風)に対して主人公のベラはといえば、読書好きで独立心を備えた知性をもって社会を生きる「異端者」として描かれる。

          (おっと、こないだの大統領選挙は…?)
          フェミニズムかくありなんといったその様相は他場面にも散見されており、例えば豪華な城への幽閉(これは勿論、「結婚」の意をも含むのであろう)に対し「自由」を訴えるなど、彼女はかなり自立的な理知的存在として意図されている。
          つまり彼女は、アメリカ的なマッチョイズムというセクシストに対抗する価値観としてのフェミニズムを訴えており、よって作品自体がフェミニズムを描いたものとも取れなくはない。
          その意味においては、ここでは「野獣」自体がセクシストのアイコンだ。
          つまり本作は、そんな「野獣」がフェミニズムに目覚めて「人」になる一方、「人」であるガストン(やそれに従う村民)がそのマッチョイズムを振りかざして「獣」化していく、といった対立構図になっていると捉えなおすことが可能だという点は、少々踏まえておいてもいいかもしれない。
          なぜならば、今回あえて取り入れた、そうしたセクシストに付き従うゲイ的存在のあるキャラの位置関係もその中で違って見えてくるからである。


          尤も、こうしたアナ雪あたりから急激に注入されてきたフェミニズム的観点であるが、しかし恐らくここでの本当の主目的は、先のような「野獣が王子様でハッピー玉の輿」的なお花畑欲望への予防線なのだろう。
          いや、予防線といって過言ならば、結局は現代における「女子のためのもの」を最重視し、リアリティと共感を求めたがための結果、と換言してもいい。
          でなければ、王子様という女子の憧れたる「プリンセスストーリー」としての本質と、フェミニズムとの齟齬はやはりぬぐえまい。
          加えるなら、ここにおいてもやはり(例えば「シンデレラ」などと同様に)イケメン化した王子の人間像はそう細かに描かれておらず、ただそこに「イケメンの王子」という「キャラ」だけが存在している。

          これは最早フェミニズム云々以前に、まさにダイレクトな女子の欲望への訴えそのものでしかない。

           

           

          これらの通り、「美女と野獣」とは、やはりどこまでいってもディズニーらしい「女子のためのプリンセスストーリー」である。

          今後何度リメイクされようが、結局は男子おいてけぼりなデートツールが毎度出来るだけなのは間違いないのだろう。

           


          ※1:ただし作品では二人が結婚する、とまではあえて描いていないのもフェミニズムへの配慮か。

          2017.05.06 Saturday

          ■書評:「罪の声」 /塩田武士 著(78点) 〜昭和の大事件を交差点とした、人の生きる「道」と「家族」の物語

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            20170506 01

             

             

             

            おぼろげな記憶でしかないが、しかし「グリコ・森永事件」といえば、ぼくら昭和キッズには忘れられない大事件である。
            キツネ目の男。
            立て続く食品メイカーへの脅迫。
            「どくいりきけん たべたら しぬで」と書かれたお菓子。
            かい人21面相。
            子供だった者が抱く当時の時代感覚なんてアテになりそうにもないが、しかし振り返ってもあれはやはり、いかにもバブル前夜、昭和末期らしい時代性を帯びた象徴的な怪事件だったのではないだろうか。
            例えば、毒入り子供向け「お菓子」という、アイテムセレクト。
            それが置かれたのが、(コンビニ以前の)「スーパーマーケット」という流通システム内であったということ。
            (更に言うなら、当時はまだそれが出来る監視体制、製造方法であったということ)
            当時のメディアの権威だった「新聞社」に対し送られた、脅迫状。
            またそのユーモラスな大阪弁。
            誘拐と身代金という犯罪形態。
            メイカー側の対応。
            警察組織へのおちょくりと、世論形成の様相。
            古株ノンキャリ部長の責任を取っての焼身自殺。
            或いは、(これは想像でしかないが)大企業への怨嗟や、株価目的の犯行、関西のヤクザ組織や団体の関係、等々…。
            こうした要素から伺える80年代前半という時代性とは、どういったものだろうか。
            急激に進みゆく豊かさにともなう大量消費社会化と、郊外化というシステムによる生活圏の囲い込み。
            マスメディアと巨大企業が主体となり促進させられる、消費活動の激化と大衆のフラット化。
            しかしグローバリズムや高度情報社会化に襲われる90年代からすれば、未だ遥かに色濃いアナログで猥雑な途上感。
            そこには迫り来るバブル時代のようなアッパーで能天気な浮つきさはないものの、しかしその暢気な安寧さのなかには未だ70年代までの粗野さと、そしてある種の重みの染み付きが取れていない。
            おそらくその「重み」とは、流動性の低さがもたらす、じゃらりとしたムラ社会の鎖であり、また一方でそれが急速に失われ、豊かと一緒に平坦に塗り替えられていることへの不安(アノミー)でもあったのだろう。
            70年代の「重さ」を引きずりながら、しかし80年代というマニックな喧騒へと向かう。
            「陰」と「陽」、「重」と「軽」の、時代の狭間。
            こうした80年代前期という時代性が孕んだある種暴力的かつ(やや不謹慎だが)ユーモラスな要素がいびつに現れたものがこの事件だった、今振り返ると、そんな気がしてきてならない。

             

             

            さて。
            その「グリコ・森永事件」をもとにしたフィクション小説、「罪の声」が、かなり面白い。
            作品内では一応「ギンガ・萬堂事件(以下、ギン萬事件)」と架空の社名を用いた事件名にしているものの、多くはかなり現実の「グリコ・森永事件」に寄せているのも興味がひかれるところだ。
            即ち、「グリコ・森永事件」=「ギン萬事件」。
            本作においても同様に、とっくに迷宮入りし、すでに時効を迎えて30年も経ってしまった昭和の大事件。
            ではその30年の経過を、30年という長い時間の流れを、作者はここでどう捉えようとしたのか。
            本作はその切り口と手法が、まずは素晴らしい。
            (実際の「グリコ・森永事件」同様)犯行のツールとして使われた、子供の「声」。
            大人になったかつてのその主の目線から、この物語は綴られていくのである。
            そして、やがて徐々に露わにされていく、事件にまつわる幾つもの謎。
            ミステリー小説さながらのこのスリリングな興奮も、確かに優れたものだ。
            また、実際どのように事件が発生し、どう警察が対応したのか、どんな失敗をして、それに犯人側がどう反応し、そしてどのように事件が収束していったのか。
            これらに対するリアリティはおろか、現場取材の細緻さ、徹底ぶりにも感心させられる。
            よってこうした余り知られていない事件の細やかな事実を知る、ということも本作の魅力の一つとなっているのは間違いない。
            加えてまるで情景が浮かんでくるような、細やかな描写力も大したものである。
            しかし、だ。
            結論から言うならば、これらは本作の焦点の主軸では、実はない。
            では、何が本作の真のテーマとなっているのか。
            それは、主人公二人を通して描かれる、「人」の生きる「道」であり、またそれらが交わり重なりつながりあうこと、その最たる場としての「家族」に他ならない。

             


            端的に言うなら、本作は「ギン萬事件」を通じて、ある二人の主人公の男からの目線を交互に描いた物語である。
            京都でスーツのテーラーを営む俊也と、新聞記者の阿久津。
            その本来無関係なはずの二人が、やがて少しずつ邂逅に進んでいくさまが、本作の大きな読みどころだ。
            大きく離れていた彼らは、一つ一つパズルを解くかのように謎を追求するうちに、点と点が線を結びながら自ずとクロスへと共に向かい、そしてよりダイナミックに物語を動かしていく。
            思わず引き込まれずにはいられないそのドラマの醍醐味については、実際に本作を読んでいただければ十分お分かりいただけることだろう。
            しかしここでぼくが何より強調しておきたいのは、本作で筆者が本当に描かんとしているものは、「事件」そのものではなく「事件」によって結ばれる人の生きる「道」である、ということだ。
            ここで言っている「道」とはすなわち、自らがその出自からこれまで生きてきた道程であり、またそこに歩を置いてこれから歩み進まんとする人生、生き方、生きる方向性のことである。
            テーラー職人であり、嘗ての犯罪の声の主としての俊也の「道」と、ジャーナリストとしての、阿久津の「道」。
            言ってみれば、「ギン萬事件」とは彼ら双方の「道」においての交差点なのだ。
            だからこそ、全く違うかたちで彼らは彼らなりに当事件を通じて、互いに自らの生きる「道」を見つめることになる。
            と同時に、その「道」の出発点であり、本拠地である「家族」をも、彼らはやがて見つめていくことになる。
            そう、人の数だけ生きる「道」があり、「家族」があるのだ。
            それは「ギン萬事件」に関った全ての者達にも勿論、同様のことである。
            いわば30年という時間は、そうした数多くの人々の長い「道のり」を意味するものであり、それらに触れることで二人はおのれの「道」を再確認していく。
            畢竟、「ギン萬事件」を追うとは、そんな多くの「道のり」をたどり追う作業でもあるということだ。
            その結果。
            他方は、自らが歩んできた道のりを改めて踏みしめなおすとともに、知らなかった「家族」の様々な面に向き合い、自分が何者であるかを捕らえなおす。
            また他方は、頼りなさげだった当初から大きくプロとしての成長を果たし、自らの「道」を見つけ、邁進することになる。
            本作最大の妙味は、ここにおいて他にない。

             

             

            30年前の過去の謎を暴く。
            無論、そうした楽しさが本作にないわけではない。
            しかしそれだけに本作は終止せず、30年を経た「今」と「未来」をもつむごうとする。
            それは本作が、30年間を生きてきた人々の道のりにまなざしを注いでいることの当然の帰結であるだろう。
            もう一度言おう。
            これは「ギン萬事件」という昭和の事件を交差点にしながらも、それぞれが異なる30年を生きてきた者達における、その生きる「道」と「家族」の物語である。
             

            2016.09.25 Sunday

            ■映画批評:「君の名は。」 〜要するに、「やりすぎ」(60点)

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              20160925 04

               

               

              1983年公開の、「時をかける少女」(原田知世主演、大林宣彦監督)
              30年以上も前の作品なので、さすがに今見るといかにも昭和な古めかしい時代感を否めない上、つたない演技やチープすぎる演出、陳腐なストーリーと見るに耐えない気恥ずかしさすら覚えるのだが、しかし。
              それでも、何故この作品がかつて名作といわれたのか。
              ずっぱまりな、原田知世の透明感ある可憐な存在感。学園タイムスリップSFものという方向性。ラベンダーや理科室などのノスタルジックな素材の扱い。尾道の情緒ある風景…。
              こうしたよく言われる魅力要素も勿論さることながら、あのラストもまた実に素晴らしかった。
              互いにひかれながらも未来の世界に帰還しなくてはいけない思い人の薬学博士「一夫」と、決まり上、やむなく記憶を消されてしまう原田知世演じる主人公の女子高生、「和子」。
              しかもその「一夫」からは、例え次に会うときがあっても、自分が誰だか判らないだろう、とも伝えられる。
              そんなことはない、絶対に忘れない。そう強く誓いながら意識を失っていく彼女の11年後が、他ならぬそのラストシーンだ。
              大人になった彼女の姿は、大学の薬学研究所にある。
              ただそれだけでわざわざ主人公に語らせずとも、ああ、彼女は忘れてしまったけれど何故か心に引っかかる思いのためにこの道を選んだのだな、と観客にも伝わってくる。
              いや、「わざわざ語らせる」よりはるかに能弁に、効果的にだ。
              と、廊下で何者かに会う。そう、まさに未来から来た先の一夫である。
              しかし記憶を失った彼女は、それに気付かない。気付けない。
              だから、「あれ、どこかで会ったような」と一回振り向いただけで、去っていってしまう。
              あんなに強く思ったにも関らず、忘却し、「少女」から「大人」になった彼女は、気付けない。思い出せない。すれ違ってしまう。結ばれない。届かない。
              わずかほんの数分程度のラストシーンだが、静かにやりとりされるそれらだけで様々なことが静寂に、しかし明確に伝わってくる。
              ああ、成る程、確かに「大人になる」ということは大切な何かを忘れ、何かを失い、代わりに得ていくことなのだな。
              だからこそ、そうした思春期の思いのかけがえのなさが、輝きが際立つのだな。
              それが伝わるからこそ、結ばれずにすれ違い終わりがちな少女の初恋のはかない淡さが、切なさが、いっそうに増すのである。


               

              20160925 02

               

              (尤も、本当に今見ると結構厳しいものがあるのも事実だが)

               

               

              さて、のっけから長々とそんな話をしたのには、当然理由がある。
              目下話題となっている、新海誠監督作品「君の名は。」。
              一言で評するなら、この作品は色々な意味で「やりすぎ」、である。

               

               

              20160925 01

               

               

              ストーリー自体は、取り立てて何というものでもない。
              ベースは、ただのボーイミーツガール。
              しかも学園ラブコメのテッパン「思春期男女入れ替わりもの」という古典的使い回しを用いながら、しかしそれだけに終止することなく、時間や彗星や神道やらといったファクターをうまく取り込むことにも成功している。
              組紐のメタファーも、一応、それはそれで悪くない。
              断っておくが、決してダメダメな作品だというわけでもない。
              「男女」という対称性と連動して対比される「都会と田舎」。
              それらの風景を描いた映像もまた、見応えある美しさに満ちている。
              加えて、各所でのアングルのアイディアも凝ったものだ。
              そうした意味では、まあよく出来た映像作品だとも言えるだろう。
              だが、やり方が余りよろしくない。
              まず何より、作り手が気付いているのか知らないが、全体的に「やりすぎ」が目につく。
              結果出来たものは、少年ラブコメに毛の生えたような「童貞のかんがえたらぶすとーりー」。これが何とも残念だ。
              そしてその何よりの象徴であり権化が、このラストである。
              ネタバレになるから余り触れたくないが、はっきり言って本作のラストは悪手であり、エンディング前15分は蛇足以外の何者でもない。

               

               

              20160925 03

               


              映画とは、全てを言葉やセリフなどで解説させるものではない。
              表情や立ち振る舞い、たたずまい、風景、シーン全てを駆使して伝えるべきことを映像表現として伝えるものだ。いや、だからこそそれが際立ったメッセージとして効果的に伝わるのである。
              映画とは、観客の願望のみを見せるものではない。「みたいもの」ではなく、「かようなもの」、「世は確かにこうなっている」というさまを見せるものだ。いや、だからこそ感動が説得力を増すのである。
              当然ながら、アニメーション作品もまた同様だ。
              然るに本作は、それらを「やりすぎ」で台無しにしてしまっている。

              例えば。
              あんな幼稚な告白をせずとも、二人が相思相愛であることは十分に伝わってくるだろう。
              あるいは、それをあんな陳腐な言葉で伝えるより、二人が思いを寄せ合っていることを訴える効果的な手法はいくらでもあっただろう。

              はたまた、「忘れてしまったが胸に何故かひっかかる思いの道に生きる」ことは、別に主人公にセリフとして解説せずとも、その姿を見せるだけで十分に伝わってくるだろう。例えば薬学研究士になって恋人を作らず生きている先の「時をかける少女」の主人公の像のように。
              それを理解せず、「語りすぎた」結果、本作のラブはあたかも万能感にまみれた子供の願望劇のごときおままごとになってしまった。
              しかも一事が万事、本作の「やりすぎ」さは随所に働いている。
              音楽の使い方も、また然り。

              そしてトドメの、あのラストである。

               

               

              20160925 05

               

               

              「時間」は必ず「忘却」を生み、はぐくむ。
              畢竟、「大人」になる、とは忘れていくことだ。
              大切だった何かを忘れ、失い、かわりにより大切なものを得ていくことだ。
              「大人」になる、とはそのように輝かしき「思春期」の思いをあたかも「夢」のように、忘却していくものだ。
              だからこそ、そのはかないまでに「忘れていくもの」がかけがえのないものだと思えるのだ。
              気付けなくなり、思い出せなくなり、すれ違い、結ばれず、届かず、「忘却」して人は「大人」になる。

              そう、冒頭で映画「時をかける少女」のラストシーンを例に出した通りだ。
              もしそうした「リアリティ」よりそれらに抗う「ファンタジー」を描けるからアニメなのだと言いたいのであれば、ならばそのぶんだけ、つまりは「かようなもの」を描かぬ分だけ、説得力に欠けた子供の自己願望的な「童貞のかんがえたらぶすとーりー」に向かうことは否めまい。
              無論、それを作り手が知らなかったわけではなかろうが、結果的に「やりすぎ」がそれを許してしまった。本作の失敗はここにこそある。
              「やりすぎ」はやはり、禁物なのである。
               

              2016.09.20 Tuesday

              ■漫画批評:「こちら葛飾区亀有公園前派出所 」 〜後編:「両津」化していった現代日本社会

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                さて、「こち亀」批評の後編である。

                 

                 

                20160920 04

                 

                ↑第一話!

                 

                 

                「こち亀」の40年の歩みとは、ぼくらの40年の戦後社会の歩みである、
                そう前回で説いた。
                「モノ」を所有、執着するという「こだわり」と、捨てる、消費する、使い捨てるという「こだわりなさ」。
                「こち亀」中期、少なくとも90年代lくらいまでは、そうしたぼくらの戦後消費社会の両面性がそこにあったことは既に述べたとおりだ。
                そして、こちらのほうが重要なのだが、これらを通じて「大人になれない大人」である存在の「両津」は40年をかけて「大人」へと「成熟」をみせていく。
                いや、やもすればときに「父」の姿をも見せていく。
                (逆にその分だけ、「大原部長」という「大人=強い父性」は、反して「成熟しきれないこと」や「成熟の無意味さ」、「成熟の不可能性」をあらわにしていく)
                これこそが、「こち亀」を支えた40年間のぼくらの社会の変化ではないだろうか。

                 

                (ちなみに今の若者にはわからないだろうが、80年代初頭までは、プラモデルやラジコン、モデルガンなどに夢中になることは、「大人」では恥ずべきことだという風習が、現代に比べると「それなりに」強かった)

                 

                つまり。
                初期「こち亀」は、そうした「大人になれない大人」である「両津」が、昭和日本のムラ社会、企業共同体の権化のような、「警察組織」という中で、その厳格な「大人の共同性」に抗い、ムチャクチャをやるから「こそ」、面白かったのだ。
                不真面目、不謹慎、反抗的で破天荒、そんな枠にはまらなさこそが痛快だったのだ。
                あるいは、そんな「大人」社会では認められない「大人になれない大人」が、しかし「趣味」の世界では極めて類まれなる才能を発揮する、そこが魅力だったのだ。


                「大人」が作る厳しい「共同体」の枠でしか生きられなかった(と思い込まれてきた)、昭和日本社会。
                しかし、本作の連載の始まった70年代後期にもなれば、当然ながらそんな古き権威は、規範は、「天皇」を頂点とした戦前的な父性は大きく揺らいでいた。
                いうまでもなく「ギャグ漫画」とは、元来、そうした「権威」や「規範」をこそ笑うものでもあった。
                当然、「警察」なるものもまたそうした「権威」や「規範」への再帰性から逃れられない。
                それを共通前提としていたから「こそ」、こうした少年向け警察ギャグ漫画が生まれ、愛され、面白いと読まれるプラットフォームが、そこにあった。
                だからこそ、「大人になれない大人」の「警察官」が面白かったのだ。
                そしてそれを、古き権威、規範、父性の象徴である「大原部長」が、諌める。
                (しかもそれでいて、時折壊れるのがまた面白かった)
                事実、かつて「両津」は「大原部長」を「戦前生まれはこれだから」といったようにぼやいてみせたりしたものだ。

                 

                 

                20160920 03

                 

                ↑今と全く違う二人

                 

                 

                しかし、40年の月日はここに大きな関係性の変化をもたらしていく。
                まず、本作内での「両津」がマイルド化し、暴力性を薄められていく。
                と同時に我々の社会においても、そんな「両津」の「大人になれなさ」はやがて「多様性」へと捉えられるようになり、つまりはぼくら社会の皆が「大人になれない大人」化し、「普遍性」に向かっていく。
                皆が「趣味」に生きるのが当たり前になり、またそれを活かして生きることが一つの価値だと思うようになった。
                作風と、社会が少しずつ共に接近していった。
                かつ、我々において、「大人になりきれない大人」で生きることが当たり前になった。
                つまり、皆が「両津」化していった。

                て、そりゃそうだ。
                だってそんな「両津」を面白いと読んだぼくら自身が「大人」へと成長し、社会を形成していくようになるのだから。

                 

                となると「両津」の「趣味」とは一つの価値観であり、またそれへの特化は同時に生きる力にすらなった。
                と同時に、「警察」組織に象徴されるような、職業共同体に縛られて生きることのくだらなさ、意味のなさが「失われた十年」以降あらわになればなるほど、「両津」のそこに縛られない自由さが高い価値のように映ってくるようになった。

                言ってみれば「両津」は、本職である警察組織内での立身出世をそう期待されていない。
                かわりに彼に期待されているのは、後期とくに顕在化してくる、「趣味」面におけるベンチャー経営者的なまでの行動ですらある。
                あるいは各方面での多才さだったり、或いは寿司に象徴されるような、卓越した職人性であったりする。
                すなわち、警察という組織では「大人になりきれない大人」が、「一人前」の「職人」や「ビジネスマン」や「達人」として、「大人」として活躍する。
                つまり、警察官としての組織共同体的な側面がここでは大きくスポイルされている。
                いや寧ろそれこそが、かつて「大人になりきれない大人」だった「両津」という「キャラクター」を、「大人」にさせている。
                ここに、「両津」化したぼくらがいかに社会に生き、「大人」になるか、その一つの理想像があるとすら言えまいか。

                 

                 

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                「多様化、グローバル化、高度情報化したこの現代社会では、"趣味"を極め、その鋭い嗅覚と才能をもってして、行動主義的に果敢に勝ち進むのが、"大人"としてうまく生きる例の一つである」

                 

                こう書くとまるでビジネス本の教えのような話でしかなく(とはいえ「こち亀」とビジネス本の接点は、案外近いとも思うのだが)、当然ながらこれだけが「こち亀」の全てであるはずもない。
                あくまで、そのほんの一面でしかないだろう。
                だがここで強調したいのは、それらの根底には間違いなく、「うまく生きよ」という社会の要請が、働いているということだ。
                いや正確には要請というより、寧ろ我々の現代社会から生じるそうした「うまく生きねば」という不安が、強迫観念が働いている。
                「"大人"として組織共同体にあわせて生きてない(=うまく生きてない)からこそ面白い」と、示していた40年前とは、そこが大きく違っているポイントだ。
                組織共同体の中で「趣味」ばかりに生きていた「大人になりきれない大人」だった「両津」は、それゆえに「趣味」を特化することによってこの現代社会を器用に、「うまく生きる」ことが出来るに至っているのである。
                「こち亀」が、ギャグ漫画としての魅力と先鋭性を圧倒的に喪失しながら、「こだわらなさ」のもとで代替えに試みてきた多様な作風。
                畢竟、40年という年月でそれを支え、変えたものは、「両津」化したぼくたちの抱える「大人になりきれない大人としてうまく生きる」ことへの不安であるだろう。

                 

                2016.09.19 Monday

                ■漫画批評:「こちら葛飾区亀有公園前派出所 」 〜前編:「大人になれない大人」がいかにして「大人」になったのか

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                  40年間という歴史的な長期連載を記録して、あの「こち亀」が終わった。
                  皆が皆思うようにかなりな唐突感が否めないが、とはいえ私的にはその真相についての野次馬根性に別段興味もなく、これはこれでよいタイミングだったのではないかと思っている次第だ。
                  実際、ここ20年近くの「こち亀」の劣化は初期を知る読者として見るに見かねるものがあったし、漫画作品としてさほど魅力的に思えるものではなくなってきていたのも事実だろう。
                  一応惰性で週間連載に目を通してはいるが、ただそれだけ。
                  よって今やさほどの感傷も抱かないのだが、しかしかつての熱心な一読者として思うこと幾つかを、少しばかりここに語り残しておくことにしよう。

                   

                   

                   

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                  さて。
                  漫画批評、として「こち亀」に向かうとなるほど、オイルショック(低成長社会)からバブル、そして失われた十年、そしてグローバル化した現代社会、とこの40年における我々日本社会の移ろい、「大人」という生き方の変化がそこに覗けるのが、何より面白いところだ。
                  …と評を進めていきたいところだが、そうした帰結に急ぐ前に折角だから、ぼくなりにこの漫画作品についての個人的な思い(と時代感)を勝手ながら語っていくとする。

                   

                  ぼくにとっての「こち亀」のピークとは、小学生だった80年代初頭の頃のそれであった。
                  いや、作品の魅力としても恐らくはそのあたりだったのだろうと、今でも思う。
                  振り返れば、連載当初の本作は高学年向けの割とわかる人向けな作品だったし、寧ろそここそがぼくら昭和ジャンプキッズの心をつかんでいた。
                  だからあの頃のぼくはおこずかいを集めて夢中になって単行本をそろえたものだったが、しかし実際に初期、いや、少なくとも5,60巻くらいまでの「こち亀」はとんでもなく面白かった。
                  人情もの、シリアスもの。
                  そうした作風の話も中にないわけじゃないし、元々秋元先生がそうしたものを得意としていた面も確かに垣間見えるのだが、しかしである。
                  それ以上に、とにかく純粋なギャグ漫画として、今読んでも十分に笑い転げられる位に、この時代の本作は面白かった。
                  嘗ての両津は何かと暴力沙汰で無茶無謀に拳銃をぶっ放し、破天荒で乱暴で欲望まみれで、何でもあり。
                  今じゃありえないほどに、その言動がムチャクチャだった。
                  しかもそれは元常識知らずボンボン色男、中川にも言える話だし、加えるなら当初は両津に愛情をすら抱いていた麗子は、今読むとぼくらオッサンにとっても「こういう女子部下、欲しい!」と思うくらい魅力的でかわいいヒロインに見えるだろう。
                  ちなみに連載初期10巻くらいまではそんなヒロインなど登場せず、もっとオッサンばかりのムサい男漫画だったし、そもそも(劇画調)少年漫画の世界なんてそういうようなものだった。
                  今振り返れば、「麗子」という「ヒロインキャラ」の存在は、この作品における80年代のポップ化への戦略的キャラクターでもあっただろう。
                  (同時代に出てきた、犬 〜名前がなかったように思う〜 もそれと同様か。あ、思い出した、そういや本口リカなんて本田のライバルヒロイン候補もこの頃いたっけ!)

                  そもそも初期「こち亀」は、「劇画タッチなのにハチャメチャギャグをやる」ところが面白い、とかつては評価されてきたわけだが、それもせめて80年代初頭までの話。
                  こうした経緯を経て、では何故この作品がこれほどの長寿を全うできたのか。
                  その秘訣は、そこには作者のもつ「こだわり」と「こだわらなさ」の両面がうまく機能したが故なのだと思う。

                   

                  「こだわり」と「こだわらなさ」。
                  それは、「モノ」に対する「こだわり」と、作品性やキャラに対する「こだわらなさ」である。
                  より言うならば、それは、「モノ」を所有するという「こだわり」と、捨てる、消費する、使い捨てるという「こだわりなさ」という、ぼくらの戦後消費社会の両面性のありようでも実は、あるだろう。

                  無論、その「こだわらなさ」には一話完結ものという作品的特徴や、そもそも往年の少年ギャグ漫画なんてもっとずっとテキトーだった、という背景もあるのだろう。
                  しかし、それらを鑑みたとしても本作がこれ程に長寿に続けられたのは、時代、時代で「キャラクター」を使い捨て、あるいはときに「キャラ」を切り替え、さらには「ギャグ漫画」としての作風すらもどんどん塗り替えてきたからである。
                  当然、先にも論じた麗子という「キャラクター」もその一環に他ならない。
                  というか、その合理性なくして週間連載なんてここまで続くわけがない、と言ったほうがいいのだろう。
                  とまれ、「こち亀」は、「キャラ」や作品性を時代にあわせて、様々なものを「使い捨て」し、消費し、生きてきた。
                  結果、初期の「キャラクター」で残っているのはメインの数人程度であり、各時代の作風にあわせてその周辺を固める「キャラクター」を時代性でどんどん入れ替えることで、作品は継続していった。
                  こうしたキャラや作風に「こだわらない」ことが、「こち亀」の存続に役だったことは、恐らく多くの評者もまた認めるところであろう。

                   

                  と同時に、ここまで続いた作品を支えているものは、他ならぬ作者のモノへの「こだわり」であったのもまた事実だ。


                  バイク、車、プラモデル、ラジコン、モデルガン、ミニカー…

                   

                  こうした趣味への執着、偏愛を、本作は「両津」という作者の内面の自己投影のような「キャラクター」を通じて表してきたことは、今更語るまでもないことだ。
                  そしてより重要なこと(かつ冒頭の話にまつわること)だが、こうしたものに対し、元来、「おもちゃ」や「趣味」に夢中な「大人になれない大人」の象徴として描かれてきた「両津」が、やがて「モノ」や「趣味」への「こだわり」ゆえに成熟し、「大人」になっていくのである。
                  「両津」の持っていた「不器用さ」は、やがて「器用さ」へと転換され、それは「大人になれない大人」だった彼に、いつの間にか多才さと強かさを与え、立派な「大人」へと変えていく。
                  さらに言うなら、そうした「大人になれない大人(=子)」である「両津」を諌める厳格な「大人(=父生)」の象徴だったはずの「大原部長」が、いつの間にか「成熟しきれない大人」の一面を見せていく。
                  作者の世代に対するリアリティが年齢を進めるにつれ、「両津」側を経て「大原部長」へと以降していった、という裏側の事情もあるのだろうが、しかしそれだけでは恐らく、ない。
                  寧ろここにこそ、ぼくたちの40年の多様性に対する社会的な変化が見えるだろう。
                  そしてこれは、「おっさん」を主人公にしたがゆえに生じた、「こち亀」という作品自体が持つ、「両津」という「キャラクター」を通して覗く「大人」の世界観の変化でもある。

                   

                  長くなったので、ここで区切って後編に続けることにする。
                   

                  2016.08.20 Saturday

                  ■「ブリティッシュグリーン」の名刺入れを買ってみた

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                    先日のことですが、長年ともにしていたうちのWHC様の名刺入れが、お亡くなりになりました。

                    (合掌)


                    では、黙祷…。

                     

                    そんなわけで、新しい名刺入れが欲しいなあ、と。

                    実を言うと長いことWHC派というか、革コモノはおよそそこのを使ってるのですが、最近そんなこだわりも激減してきましてね(笑)。

                    別にどこでもいいわっつーか、WHCもういいかな位に思い始めてたりして。

                     

                    で、新しく考えたのが、「ココマイスター」、あるいは「GANZO」などの日本の職人もの。
                    いや、わあってんのよ、ここら辺がいいってことぁ。
                    でも、今すぐに必要。
                    しかも、出来ればこのところ出費もかさんでることだし、安くていいのが欲しい。

                    その手のいいものは、そのうち機会を見つけてゆっくり別に買うからさ、すぐ来て使いたい。

                    (てかココマイスターさんの職人さんの仕上がり悠長に待ってらんない)

                     

                    そんなわけで目をつけたのが、お手頃ブランドとして知られる「ブリティッシュグリーン」であります。

                     

                     

                    British Green-ブリティッシュグリーン
                     

                     

                    特徴はなんといっても、こちら。

                     

                    ・とくにかくハイコスパ。1万円以内でどシンプルなブライドルものが買えるからすごい!
                    ・とはいえ、しっかりレザーは英国のほこる名門セドウィック社を使用
                    ・でもメイドインチャイナ、というそれなり品質

                     

                     

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                    (公式サイトより)

                     

                     

                    要するに、一級品のレザー素材で、そこそこほどほどなものを、安く手に入れるにはこいつがいい、ってわけですな。
                    いやあ、実際んとこ、安い安い。
                    でも、この通りだからといってそう安っぽいっていうわけでもない。
                    なるほど、確かに裁縫にやや品質の弱さは見える。
                    でもね、それでも1万円以下ですぜ?
                    楽天で探せば、6000円くらいのもあるっつー話ですぜ?マジかよ!

                     

                     

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                    (公式サイトより)

                     

                     

                    そんなわけで、早速ポチってみました。

                     

                     

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                    翌日到着。

                    さすがぼくらのアマゾソ。

                     

                     

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                    はい、出ました実物。

                    うん、安いせいか、細かい作りはちょい雑把。

                    でもだからといって、そんな安物感は確かにない。

                    なんといっても材質が違う。

                    高級ブランドものご用達な一流タンナー、セドウィック社だ。
                    それもありがちな安物と違って、しっかりワックスが芯通しされている。

                    うん、これはなかなかいいんじゃなくって?

                    実際、革好きくらいしかわからんですよ、これが安物なんて。

                    てか普通に見たら、しっとりした深い色合いのいい革名刺入れにしか見えないはず。(多分)

                     

                     

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                    開くとこんな感じ。

                    勿論、ネームなんて入れません(笑)。

                     

                     

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                    結構分厚い作り。

                    意外と入りそうだな。

                     

                     

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                    手に握るとこんな感じ。

                    まだブルームが付きそう(笑)。

                    こんなお値段のネイ仕入れとはいえど、それなりにエイジングが楽しみ。

                     

                     

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                    そんなわけでこの「ブリティッシュグリーン」の名刺入れ。

                    値段も値段だし、シンプルで飽きもなさそうだし、割り切って使うにはこれ、悪い選択じゃないかなって実際に手に取って思ってます。いまんとこ。

                    だってホラ、ぱっと見、できるオトコ感あるいい色した革名刺入れじゃないすっか。
                    なので皆様も、ちょっとしたプレゼントに名前入れてあげたりとか、新人社会人の最初の一つという選択肢にしては申し分ないんじゃないかな。

                    まあ、唯一の問題は、ここのって名刺入れ以外があんまりぱっとしないこと位かな。

                     

                    2016.08.19 Friday

                    ■【速報】黒崎さんがまた病気になられたようです【前庭神経炎】

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                      久しぶりの更新でありますが、そういうのスルーしますね。(敢えて!)

                       

                       

                      一昨日のことですが、「前庭神経炎」なる病気になりましてね。

                       

                      いやはや、つらかった。
                      というのも、この日は寝不足だったんですね。
                      朝からどうも調子がいまひとつおかしかった。
                      それでもまあお盆明けだと思い、仕事もたまってるしで、出社したんですね。
                      午前中に、書類の作成業務をしてたらね、いきなりきた。
                      ぐるん、と世界が回った。

                       

                      あ、これ、ぶりーちで見た!

                      平子隊長の斬魄刀や。

                       

                       

                       


                      でも、そのときはさほどでもなく落ち着いた。
                      やべー、熱中症?夏バテ?寝不足?
                      疲れてるんかなあ俺。
                      そんなことを考えていた矢先に、またそれがきた。

                      ぐるん。

                       

                       

                       

                       

                      うわ。
                      あかん、これだめだ、あかんやつや。
                      はよ帰って寝よ。
                      そう思ってね、早めに帰宅して寝てた。

                       

                      そっからですわ。
                      ふと起きたら、また、ぐるん。

                      そして、ぐるん。

                      ぐるん、ぐるん。
                      今度は昼みたいな生易しいもんじゃない。
                      回転がとまらない。
                      立ってらんない。
                      ちょっとしたブッチ神父のスタンドだろって確信するくらいのぐるぐる感。
                      寧ろ世界がものっそいスピードで回ってる。
                      そんな花びら大回転。
                      本誌記者も思わず昇天。
                      ってうっせーよバカ!マジで死ぬわこれ。
                      もう、そこからが地獄の始まり。奈落の一丁目。
                      乗り物酔いのような吐き気が、ミスチルも真っ青な程にとどまることを知らない。

                       

                      そのせいで、自律神経がブチ壊れましてね。
                      まず体温管理が出来なくなり、寒気とともに汗、ドッバアアアー!
                      手足がガクガク、体びくんびくん。
                      あ、これ、俺ん中から肉の芽出るわ。
                      ビュー、でるわ。

                       

                       

                      20160818 01

                       

                      これ、覚悟しましたね。
                      そりゃもう即、病院ですわ。


                      で。

                      その結果、診察された病名は、「前庭神経炎」。
                      よう判らないのですが、耳の病気。
                      なんでも三半規管がお狂いになったったそうであります。

                       

                      以下、ここからは、ネットで調べたりお医者さんに聞いた素人ヨタ話であります。

                      自分の病気に対するメモも含めて、調べたりしたことを残しておきます。

                      詳細はもっと専門的なところでどうぞ。

                       

                       

                      ■「前庭神経炎」とは?

                       

                      (通常片側の)耳内の前庭器官が急激に障害され、めまいを突発的に起こす病気。
                      症状は、回転性のめまいという、一番えぐい症状として現れ、同時にしばしば吐き気や嘔吐、冷や汗を伴います。
                      また激しい眼振が生じます。これが「前庭神経炎j」の重要なポイントだとか。
                      自分も左から右にピクピク動いていた、と嫁さんに言われました。

                       

                       

                       

                       

                      上図:一番判りやすかった、「めまいプロ」様から拝借いたしました。

                      一応、自分に対するメモ替わりとしてここにはおいてはおきますが、本来うちのような医療知識の微塵もないドシロウトではなく、こういうプロのところに尋ねたほうが確実にええと思いますです。

                       

                      http://www.memai-pro.com/guidance/booklet/booklet03/p05.htm

                       

                       

                      ■いつまで続くの?

                       

                      目眩は通常、数日〜1週間程度続きますが、その後少しずつ軽くなっていきます。
                      ただし、発症後1週間程度は歩行に困難を感じます。
                      およそ3週間くらいすればほぼおさまりますが、しかし浮遊感やふらつきは、しばらく持続する可能性があります。

                       

                       

                      ■原因は?

                       

                      ウイルス感染が原因とも言われるものの、詳しくは分かっていません。

                      自分も正直、よくわかってないです。

                       

                       

                      ■他の病気とどう違うの?

                       

                      調べる限り、この前庭神経炎は、難聴や耳鳴りなどの聴覚の症状を伴わないのが特徴なようです。 
                      耳の病気である「メニエール病」と違い、難聴、耳鳴りは生じません。
                      また、脳卒中などによる眩暈にありがちな、意識障害、四肢麻痺(自分の場合は一時的なものだったようです)、言語障害などは伴わないようです。

                       

                       

                      ■治療法は

                       

                      とにかく安静、とのこと。
                      自分の場合、鎮静剤や眩暈止め、制吐止めなどの点滴を打ったらかなり楽になりました。
                      また炎症抑制のためのステロイド剤も、場合によっては有効とのことです。
                      (ソースはかかりつけのお医者さん)
                      通常は余りの激しい眩暈のため、入院による治療を要することが多いようですが、自分は自宅での療養で治しました。
                      ちなみに再発は余りないそうです。

                       

                       

                      20160818 03

                       

                      これでかなり楽になりましたわ…。

                       

                       

                      ■感想

                       

                      とにかく突然襲い掛かるのが怖い。
                      これ、車の運転中に襲われたと思ったらゾっとしますわ。
                      何せ、世界が回る。ものっそいスピードで回る。
                      でも、確かに言葉もはっきり出るし、手指も動くし、耳なりもないし普通に聞こえる。
                      ただ、眩暈だけがハンパない。
                      そんな症状がほぼ1日ほど続き、頭を動かせない。立てない。
                      ようやく動けるようになったのが、三日目ですかね。
                      くるっと振り向いたり、時々よろっとふらつくことはあるけれど、一週間程度で治ることが出来ました。
                      原因は…確かによく判らない。
                      ウィルス?でも別に風邪ひいていたわけではない。
                      ただし、夏バテと、飲み過ぎ、寝不足だったのは確か。
                      そのせいで、免疫の低下があったのは否めないかも。

                       

                       

                      20160818 02

                       

                       

                      ■結論

                       

                      うん、やっぱり大事だよな、免疫力は。

                       

                       

                      そんなわけで、皆様も暑い日々が続きますが、お大事に。

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