2016.09.25 Sunday

■映画批評:「君の名は。」 〜要するに、「やりすぎ」(60点)

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    20160925 04

     

     

    1983年公開の、「時をかける少女」(原田知世主演、大林宣彦監督)
    30年以上も前の作品なので、さすがに今見るといかにも昭和な古めかしい時代感を否めない上、つたない演技やチープすぎる演出、陳腐なストーリーと見るに耐えない気恥ずかしさすら覚えるのだが、しかし。
    それでも、何故この作品がかつて名作といわれたのか。
    ずっぱまりな、原田知世の透明感ある可憐な存在感。学園タイムスリップSFものという方向性。ラベンダーや理科室などのノスタルジックな素材の扱い。尾道の情緒ある風景…。
    こうしたよく言われる魅力要素も勿論さることながら、あのラストもまた実に素晴らしかった。
    互いにひかれながらも未来の世界に帰還しなくてはいけない思い人の薬学博士「一夫」と、決まり上、やむなく記憶を消されてしまう原田知世演じる主人公の女子高生、「和子」。
    しかもその「一夫」からは、例え次に会うときがあっても、自分が誰だか判らないだろう、とも伝えられる。
    そんなことはない、絶対に忘れない。そう強く誓いながら意識を失っていく彼女の11年後が、他ならぬそのラストシーンだ。
    大人になった彼女の姿は、大学の薬学研究所にある。
    ただそれだけでわざわざ主人公に語らせずとも、ああ、彼女は忘れてしまったけれど何故か心に引っかかる思いのためにこの道を選んだのだな、と観客にも伝わってくる。
    いや、「わざわざ語らせる」よりはるかに能弁に、効果的にだ。
    と、廊下で何者かに会う。そう、まさに未来から来た先の一夫である。
    しかし記憶を失った彼女は、それに気付かない。気付けない。
    だから、「あれ、どこかで会ったような」と一回振り向いただけで、去っていってしまう。
    あんなに強く思ったにも関らず、忘却し、「少女」から「大人」になった彼女は、気付けない。思い出せない。すれ違ってしまう。結ばれない。届かない。
    わずかほんの数分程度のラストシーンだが、静かにやりとりされるそれらだけで様々なことが静寂に、しかし明確に伝わってくる。
    ああ、成る程、確かに「大人になる」ということは大切な何かを忘れ、何かを失い、代わりに得ていくことなのだな。
    だからこそ、そうした思春期の思いのかけがえのなさが、輝きが際立つのだな。
    それが伝わるからこそ、結ばれずにすれ違い終わりがちな少女の初恋のはかない淡さが、切なさが、いっそうに増すのである。


     

    20160925 02

     

    (尤も、本当に今見ると結構厳しいものがあるのも事実だが)

     

     

    さて、のっけから長々とそんな話をしたのには、当然理由がある。
    目下話題となっている、新海誠監督作品「君の名は。」。
    一言で評するなら、この作品は色々な意味で「やりすぎ」、である。

     

     

    20160925 01

     

     

    ストーリー自体は、取り立てて何というものでもない。
    ベースは、ただのボーイミーツガール。
    しかも学園ラブコメのテッパン「思春期男女入れ替わりもの」という古典的使い回しを用いながら、しかしそれだけに終止することなく、時間や彗星や神道やらといったファクターをうまく取り込むことにも成功している。
    組紐のメタファーも、一応、それはそれで悪くない。
    断っておくが、決してダメダメな作品だというわけでもない。
    「男女」という対称性と連動して対比される「都会と田舎」。
    それらの風景を描いた映像もまた、見応えある美しさに満ちている。
    加えて、各所でのアングルのアイディアも凝ったものだ。
    そうした意味では、まあよく出来た映像作品だとも言えるだろう。
    だが、やり方が余りよろしくない。
    まず何より、作り手が気付いているのか知らないが、全体的に「やりすぎ」が目につく。
    結果出来たものは、少年ラブコメに毛の生えたような「童貞のかんがえたらぶすとーりー」。これが何とも残念だ。
    そしてその何よりの象徴であり権化が、このラストである。
    ネタバレになるから余り触れたくないが、はっきり言って本作のラストは悪手であり、エンディング前15分は蛇足以外の何者でもない。

     

     

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    映画とは、全てを言葉やセリフなどで解説させるものではない。
    表情や立ち振る舞い、たたずまい、風景、シーン全てを駆使して伝えるべきことを映像表現として伝えるものだ。いや、だからこそそれが際立ったメッセージとして効果的に伝わるのである。
    映画とは、観客の願望のみを見せるものではない。「みたいもの」ではなく、「かようなもの」、「世は確かにこうなっている」というさまを見せるものだ。いや、だからこそ感動が説得力を増すのである。
    当然ながら、アニメーション作品もまた同様だ。
    然るに本作は、それらを「やりすぎ」で台無しにしてしまっている。

    例えば。
    あんな幼稚な告白をせずとも、二人が相思相愛であることは十分に伝わってくるだろう。
    あるいは、それをあんな陳腐な言葉で伝えるより、二人が思いを寄せ合っていることを訴える効果的な手法はいくらでもあっただろう。

    はたまた、「忘れてしまったが胸に何故かひっかかる思いの道に生きる」ことは、別に主人公にセリフとして解説せずとも、その姿を見せるだけで十分に伝わってくるだろう。例えば薬学研究士になって恋人を作らず生きている先の「時をかける少女」の主人公の像のように。
    それを理解せず、「語りすぎた」結果、本作のラブはあたかも万能感にまみれた子供の願望劇のごときおままごとになってしまった。
    しかも一事が万事、本作の「やりすぎ」さは随所に働いている。
    音楽の使い方も、また然り。

    そしてトドメの、あのラストである。

     

     

    20160925 05

     

     

    「時間」は必ず「忘却」を生み、はぐくむ。
    畢竟、「大人」になる、とは忘れていくことだ。
    大切だった何かを忘れ、失い、かわりにより大切なものを得ていくことだ。
    「大人」になる、とはそのように輝かしき「思春期」の思いをあたかも「夢」のように、忘却していくものだ。
    だからこそ、そのはかないまでに「忘れていくもの」がかけがえのないものだと思えるのだ。
    気付けなくなり、思い出せなくなり、すれ違い、結ばれず、届かず、「忘却」して人は「大人」になる。

    そう、冒頭で映画「時をかける少女」のラストシーンを例に出した通りだ。
    もしそうした「リアリティ」よりそれらに抗う「ファンタジー」を描けるからアニメなのだと言いたいのであれば、ならばそのぶんだけ、つまりは「かようなもの」を描かぬ分だけ、説得力に欠けた子供の自己願望的な「童貞のかんがえたらぶすとーりー」に向かうことは否めまい。
    無論、それを作り手が知らなかったわけではなかろうが、結果的に「やりすぎ」がそれを許してしまった。本作の失敗はここにこそある。
    「やりすぎ」はやはり、禁物なのである。
     

    2016.09.20 Tuesday

    ■漫画批評:「こちら葛飾区亀有公園前派出所 」 〜後編:「両津」化していった現代日本社会

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      さて、「こち亀」批評の後編である。

       

       

      20160920 04

       

      ↑第一話!

       

       

      「こち亀」の40年の歩みとは、ぼくらの40年の戦後社会の歩みである、
      そう前回で説いた。
      「モノ」を所有、執着するという「こだわり」と、捨てる、消費する、使い捨てるという「こだわりなさ」。
      「こち亀」中期、少なくとも90年代lくらいまでは、そうしたぼくらの戦後消費社会の両面性がそこにあったことは既に述べたとおりだ。
      そして、こちらのほうが重要なのだが、これらを通じて「大人になれない大人」である存在の「両津」は40年をかけて「大人」へと「成熟」をみせていく。
      いや、やもすればときに「父」の姿をも見せていく。
      (逆にその分だけ、「大原部長」という「大人=強い父性」は、反して「成熟しきれないこと」や「成熟の無意味さ」、「成熟の不可能性」をあらわにしていく)
      これこそが、「こち亀」を支えた40年間のぼくらの社会の変化ではないだろうか。

       

      (ちなみに今の若者にはわからないだろうが、80年代初頭までは、プラモデルやラジコン、モデルガンなどに夢中になることは、「大人」では恥ずべきことだという風習が、現代に比べると「それなりに」強かった)

       

      つまり。
      初期「こち亀」は、そうした「大人になれない大人」である「両津」が、昭和日本のムラ社会、企業共同体の権化のような、「警察組織」という中で、その厳格な「大人の共同性」に抗い、ムチャクチャをやるから「こそ」、面白かったのだ。
      不真面目、不謹慎、反抗的で破天荒、そんな枠にはまらなさこそが痛快だったのだ。
      あるいは、そんな「大人」社会では認められない「大人になれない大人」が、しかし「趣味」の世界では極めて類まれなる才能を発揮する、そこが魅力だったのだ。


      「大人」が作る厳しい「共同体」の枠でしか生きられなかった(と思い込まれてきた)、昭和日本社会。
      しかし、本作の連載の始まった70年代後期にもなれば、当然ながらそんな古き権威は、規範は、「天皇」を頂点とした戦前的な父性は大きく揺らいでいた。
      いうまでもなく「ギャグ漫画」とは、元来、そうした「権威」や「規範」をこそ笑うものでもあった。
      当然、「警察」なるものもまたそうした「権威」や「規範」への再帰性から逃れられない。
      それを共通前提としていたから「こそ」、こうした少年向け警察ギャグ漫画が生まれ、愛され、面白いと読まれるプラットフォームが、そこにあった。
      だからこそ、「大人になれない大人」の「警察官」が面白かったのだ。
      そしてそれを、古き権威、規範、父性の象徴である「大原部長」が、諌める。
      (しかもそれでいて、時折壊れるのがまた面白かった)
      事実、かつて「両津」は「大原部長」を「戦前生まれはこれだから」といったようにぼやいてみせたりしたものだ。

       

       

      20160920 03

       

      ↑今と全く違う二人

       

       

      しかし、40年の月日はここに大きな関係性の変化をもたらしていく。
      まず、本作内での「両津」がマイルド化し、暴力性を薄められていく。
      と同時に我々の社会においても、そんな「両津」の「大人になれなさ」はやがて「多様性」へと捉えられるようになり、つまりはぼくら社会の皆が「大人になれない大人」化し、「普遍性」に向かっていく。
      皆が「趣味」に生きるのが当たり前になり、またそれを活かして生きることが一つの価値だと思うようになった。
      作風と、社会が少しずつ共に接近していった。
      かつ、我々において、「大人になりきれない大人」で生きることが当たり前になった。
      つまり、皆が「両津」化していった。

      て、そりゃそうだ。
      だってそんな「両津」を面白いと読んだぼくら自身が「大人」へと成長し、社会を形成していくようになるのだから。

       

      となると「両津」の「趣味」とは一つの価値観であり、またそれへの特化は同時に生きる力にすらなった。
      と同時に、「警察」組織に象徴されるような、職業共同体に縛られて生きることのくだらなさ、意味のなさが「失われた十年」以降あらわになればなるほど、「両津」のそこに縛られない自由さが高い価値のように映ってくるようになった。

      言ってみれば「両津」は、本職である警察組織内での立身出世をそう期待されていない。
      かわりに彼に期待されているのは、後期とくに顕在化してくる、「趣味」面におけるベンチャー経営者的なまでの行動ですらある。
      あるいは各方面での多才さだったり、或いは寿司に象徴されるような、卓越した職人性であったりする。
      すなわち、警察という組織では「大人になりきれない大人」が、「一人前」の「職人」や「ビジネスマン」や「達人」として、「大人」として活躍する。
      つまり、警察官としての組織共同体的な側面がここでは大きくスポイルされている。
      いや寧ろそれこそが、かつて「大人になりきれない大人」だった「両津」という「キャラクター」を、「大人」にさせている。
      ここに、「両津」化したぼくらがいかに社会に生き、「大人」になるか、その一つの理想像があるとすら言えまいか。

       

       

      20160920 05

       

       

      「多様化、グローバル化、高度情報化したこの現代社会では、"趣味"を極め、その鋭い嗅覚と才能をもってして、行動主義的に果敢に勝ち進むのが、"大人"としてうまく生きる例の一つである」

       

      こう書くとまるでビジネス本の教えのような話でしかなく(とはいえ「こち亀」とビジネス本の接点は、案外近いとも思うのだが)、当然ながらこれだけが「こち亀」の全てであるはずもない。
      あくまで、そのほんの一面でしかないだろう。
      だがここで強調したいのは、それらの根底には間違いなく、「うまく生きよ」という社会の要請が、働いているということだ。
      いや正確には要請というより、寧ろ我々の現代社会から生じるそうした「うまく生きねば」という不安が、強迫観念が働いている。
      「"大人"として組織共同体にあわせて生きてない(=うまく生きてない)からこそ面白い」と、示していた40年前とは、そこが大きく違っているポイントだ。
      組織共同体の中で「趣味」ばかりに生きていた「大人になりきれない大人」だった「両津」は、それゆえに「趣味」を特化することによってこの現代社会を器用に、「うまく生きる」ことが出来るに至っているのである。
      「こち亀」が、ギャグ漫画としての魅力と先鋭性を圧倒的に喪失しながら、「こだわらなさ」のもとで代替えに試みてきた多様な作風。
      畢竟、40年という年月でそれを支え、変えたものは、「両津」化したぼくたちの抱える「大人になりきれない大人としてうまく生きる」ことへの不安であるだろう。

       

      2016.09.19 Monday

      ■漫画批評:「こちら葛飾区亀有公園前派出所 」 〜前編:「大人になれない大人」がいかにして「大人」になったのか

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        20160920 01

         

         

        40年間という歴史的な長期連載を記録して、あの「こち亀」が終わった。
        皆が皆思うようにかなりな唐突感が否めないが、とはいえ私的にはその真相についての野次馬根性に別段興味もなく、これはこれでよいタイミングだったのではないかと思っている次第だ。
        実際、ここ20年近くの「こち亀」の劣化は初期を知る読者として見るに見かねるものがあったし、漫画作品としてさほど魅力的に思えるものではなくなってきていたのも事実だろう。
        一応惰性で週間連載に目を通してはいるが、ただそれだけ。
        よって今やさほどの感傷も抱かないのだが、しかしかつての熱心な一読者として思うこと幾つかを、少しばかりここに語り残しておくことにしよう。

         

         

         

        20160920 02

         

         


        さて。
        漫画批評、として「こち亀」に向かうとなるほど、オイルショック(低成長社会)からバブル、そして失われた十年、そしてグローバル化した現代社会、とこの40年における我々日本社会の移ろい、「大人」という生き方の変化がそこに覗けるのが、何より面白いところだ。
        …と評を進めていきたいところだが、そうした帰結に急ぐ前に折角だから、ぼくなりにこの漫画作品についての個人的な思い(と時代感)を勝手ながら語っていくとする。

         

        ぼくにとっての「こち亀」のピークとは、小学生だった80年代初頭の頃のそれであった。
        いや、作品の魅力としても恐らくはそのあたりだったのだろうと、今でも思う。
        振り返れば、連載当初の本作は高学年向けの割とわかる人向けな作品だったし、寧ろそここそがぼくら昭和ジャンプキッズの心をつかんでいた。
        だからあの頃のぼくはおこずかいを集めて夢中になって単行本をそろえたものだったが、しかし実際に初期、いや、少なくとも5,60巻くらいまでの「こち亀」はとんでもなく面白かった。
        人情もの、シリアスもの。
        そうした作風の話も中にないわけじゃないし、元々秋元先生がそうしたものを得意としていた面も確かに垣間見えるのだが、しかしである。
        それ以上に、とにかく純粋なギャグ漫画として、今読んでも十分に笑い転げられる位に、この時代の本作は面白かった。
        嘗ての両津は何かと暴力沙汰で無茶無謀に拳銃をぶっ放し、破天荒で乱暴で欲望まみれで、何でもあり。
        今じゃありえないほどに、その言動がムチャクチャだった。
        しかもそれは元常識知らずボンボン色男、中川にも言える話だし、加えるなら当初は両津に愛情をすら抱いていた麗子は、今読むとぼくらオッサンにとっても「こういう女子部下、欲しい!」と思うくらい魅力的でかわいいヒロインに見えるだろう。
        ちなみに連載初期10巻くらいまではそんなヒロインなど登場せず、もっとオッサンばかりのムサい男漫画だったし、そもそも(劇画調)少年漫画の世界なんてそういうようなものだった。
        今振り返れば、「麗子」という「ヒロインキャラ」の存在は、この作品における80年代のポップ化への戦略的キャラクターでもあっただろう。
        (同時代に出てきた、犬 〜名前がなかったように思う〜 もそれと同様か。あ、思い出した、そういや本口リカなんて本田のライバルヒロイン候補もこの頃いたっけ!)

        そもそも初期「こち亀」は、「劇画タッチなのにハチャメチャギャグをやる」ところが面白い、とかつては評価されてきたわけだが、それもせめて80年代初頭までの話。
        こうした経緯を経て、では何故この作品がこれほどの長寿を全うできたのか。
        その秘訣は、そこには作者のもつ「こだわり」と「こだわらなさ」の両面がうまく機能したが故なのだと思う。

         

        「こだわり」と「こだわらなさ」。
        それは、「モノ」に対する「こだわり」と、作品性やキャラに対する「こだわらなさ」である。
        より言うならば、それは、「モノ」を所有するという「こだわり」と、捨てる、消費する、使い捨てるという「こだわりなさ」という、ぼくらの戦後消費社会の両面性のありようでも実は、あるだろう。

        無論、その「こだわらなさ」には一話完結ものという作品的特徴や、そもそも往年の少年ギャグ漫画なんてもっとずっとテキトーだった、という背景もあるのだろう。
        しかし、それらを鑑みたとしても本作がこれ程に長寿に続けられたのは、時代、時代で「キャラクター」を使い捨て、あるいはときに「キャラ」を切り替え、さらには「ギャグ漫画」としての作風すらもどんどん塗り替えてきたからである。
        当然、先にも論じた麗子という「キャラクター」もその一環に他ならない。
        というか、その合理性なくして週間連載なんてここまで続くわけがない、と言ったほうがいいのだろう。
        とまれ、「こち亀」は、「キャラ」や作品性を時代にあわせて、様々なものを「使い捨て」し、消費し、生きてきた。
        結果、初期の「キャラクター」で残っているのはメインの数人程度であり、各時代の作風にあわせてその周辺を固める「キャラクター」を時代性でどんどん入れ替えることで、作品は継続していった。
        こうしたキャラや作風に「こだわらない」ことが、「こち亀」の存続に役だったことは、恐らく多くの評者もまた認めるところであろう。

         

        と同時に、ここまで続いた作品を支えているものは、他ならぬ作者のモノへの「こだわり」であったのもまた事実だ。


        バイク、車、プラモデル、ラジコン、モデルガン、ミニカー…

         

        こうした趣味への執着、偏愛を、本作は「両津」という作者の内面の自己投影のような「キャラクター」を通じて表してきたことは、今更語るまでもないことだ。
        そしてより重要なこと(かつ冒頭の話にまつわること)だが、こうしたものに対し、元来、「おもちゃ」や「趣味」に夢中な「大人になれない大人」の象徴として描かれてきた「両津」が、やがて「モノ」や「趣味」への「こだわり」ゆえに成熟し、「大人」になっていくのである。
        「両津」の持っていた「不器用さ」は、やがて「器用さ」へと転換され、それは「大人になれない大人」だった彼に、いつの間にか多才さと強かさを与え、立派な「大人」へと変えていく。
        さらに言うなら、そうした「大人になれない大人(=子)」である「両津」を諌める厳格な「大人(=父生)」の象徴だったはずの「大原部長」が、いつの間にか「成熟しきれない大人」の一面を見せていく。
        作者の世代に対するリアリティが年齢を進めるにつれ、「両津」側を経て「大原部長」へと以降していった、という裏側の事情もあるのだろうが、しかしそれだけでは恐らく、ない。
        寧ろここにこそ、ぼくたちの40年の多様性に対する社会的な変化が見えるだろう。
        そしてこれは、「おっさん」を主人公にしたがゆえに生じた、「こち亀」という作品自体が持つ、「両津」という「キャラクター」を通して覗く「大人」の世界観の変化でもある。

         

        長くなったので、ここで区切って後編に続けることにする。
         

        2016.08.20 Saturday

        ■「ブリティッシュグリーン」の名刺入れを買ってみた

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          先日のことですが、長年ともにしていたうちのWHC様の名刺入れが、お亡くなりになりました。

          (合掌)


          では、黙祷…。

           

          そんなわけで、新しい名刺入れが欲しいなあ、と。

          実を言うと長いことWHC派というか、革コモノはおよそそこのを使ってるのですが、最近そんなこだわりも激減してきましてね(笑)。

          別にどこでもいいわっつーか、WHCもういいかな位に思い始めてたりして。

           

          で、新しく考えたのが、「ココマイスター」、あるいは「GANZO」などの日本の職人もの。
          いや、わあってんのよ、ここら辺がいいってことぁ。
          でも、今すぐに必要。
          しかも、出来ればこのところ出費もかさんでることだし、安くていいのが欲しい。

          その手のいいものは、そのうち機会を見つけてゆっくり別に買うからさ、すぐ来て使いたい。

          (てかココマイスターさんの職人さんの仕上がり悠長に待ってらんない)

           

          そんなわけで目をつけたのが、お手頃ブランドとして知られる「ブリティッシュグリーン」であります。

           

           

          British Green-ブリティッシュグリーン
           

           

          特徴はなんといっても、こちら。

           

          ・とくにかくハイコスパ。1万円以内でどシンプルなブライドルものが買えるからすごい!
          ・とはいえ、しっかりレザーは英国のほこる名門セドウィック社を使用
          ・でもメイドインチャイナ、というそれなり品質

           

           

          20160820 08

           

          (公式サイトより)

           

           

          要するに、一級品のレザー素材で、そこそこほどほどなものを、安く手に入れるにはこいつがいい、ってわけですな。
          いやあ、実際んとこ、安い安い。
          でも、この通りだからといってそう安っぽいっていうわけでもない。
          なるほど、確かに裁縫にやや品質の弱さは見える。
          でもね、それでも1万円以下ですぜ?
          楽天で探せば、6000円くらいのもあるっつー話ですぜ?マジかよ!

           

           

          20160820 07

           

          (公式サイトより)

           

           

          そんなわけで、早速ポチってみました。

           

           

          20160820 06

           

           

          翌日到着。

          さすがぼくらのアマゾソ。

           

           

          20160820 05

           

           

          はい、出ました実物。

          うん、安いせいか、細かい作りはちょい雑把。

          でもだからといって、そんな安物感は確かにない。

          なんといっても材質が違う。

          高級ブランドものご用達な一流タンナー、セドウィック社だ。
          それもありがちな安物と違って、しっかりワックスが芯通しされている。

          うん、これはなかなかいいんじゃなくって?

          実際、革好きくらいしかわからんですよ、これが安物なんて。

          てか普通に見たら、しっとりした深い色合いのいい革名刺入れにしか見えないはず。(多分)

           

           

          20160820 04

           

           

          開くとこんな感じ。

          勿論、ネームなんて入れません(笑)。

           

           

          20160820 03

           

           

          結構分厚い作り。

          意外と入りそうだな。

           

           

          20160820 01

           

           

          手に握るとこんな感じ。

          まだブルームが付きそう(笑)。

          こんなお値段のネイ仕入れとはいえど、それなりにエイジングが楽しみ。

           

           

          20160820 02

           


          そんなわけでこの「ブリティッシュグリーン」の名刺入れ。

          値段も値段だし、シンプルで飽きもなさそうだし、割り切って使うにはこれ、悪い選択じゃないかなって実際に手に取って思ってます。いまんとこ。

          だってホラ、ぱっと見、できるオトコ感あるいい色した革名刺入れじゃないすっか。
          なので皆様も、ちょっとしたプレゼントに名前入れてあげたりとか、新人社会人の最初の一つという選択肢にしては申し分ないんじゃないかな。

          まあ、唯一の問題は、ここのって名刺入れ以外があんまりぱっとしないこと位かな。

           

          2016.08.19 Friday

          ■【速報】黒崎さんがまた病気になられたようです【前庭神経炎】

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            久しぶりの更新でありますが、そういうのスルーしますね。(敢えて!)

             

             

            一昨日のことですが、「前庭神経炎」なる病気になりましてね。

             

            いやはや、つらかった。
            というのも、この日は寝不足だったんですね。
            朝からどうも調子がいまひとつおかしかった。
            それでもまあお盆明けだと思い、仕事もたまってるしで、出社したんですね。
            午前中に、書類の作成業務をしてたらね、いきなりきた。
            ぐるん、と世界が回った。

             

            あ、これ、ぶりーちで見た!

            平子隊長の斬魄刀や。

             

             

             


            でも、そのときはさほどでもなく落ち着いた。
            やべー、熱中症?夏バテ?寝不足?
            疲れてるんかなあ俺。
            そんなことを考えていた矢先に、またそれがきた。

            ぐるん。

             

             

             

             

            うわ。
            あかん、これだめだ、あかんやつや。
            はよ帰って寝よ。
            そう思ってね、早めに帰宅して寝てた。

             

            そっからですわ。
            ふと起きたら、また、ぐるん。

            そして、ぐるん。

            ぐるん、ぐるん。
            今度は昼みたいな生易しいもんじゃない。
            回転がとまらない。
            立ってらんない。
            ちょっとしたブッチ神父のスタンドだろって確信するくらいのぐるぐる感。
            寧ろ世界がものっそいスピードで回ってる。
            そんな花びら大回転。
            本誌記者も思わず昇天。
            ってうっせーよバカ!マジで死ぬわこれ。
            もう、そこからが地獄の始まり。奈落の一丁目。
            乗り物酔いのような吐き気が、ミスチルも真っ青な程にとどまることを知らない。

             

            そのせいで、自律神経がブチ壊れましてね。
            まず体温管理が出来なくなり、寒気とともに汗、ドッバアアアー!
            手足がガクガク、体びくんびくん。
            あ、これ、俺ん中から肉の芽出るわ。
            ビュー、でるわ。

             

             

            20160818 01

             

            これ、覚悟しましたね。
            そりゃもう即、病院ですわ。


            で。

            その結果、診察された病名は、「前庭神経炎」。
            よう判らないのですが、耳の病気。
            なんでも三半規管がお狂いになったったそうであります。

             

            以下、ここからは、ネットで調べたりお医者さんに聞いた素人ヨタ話であります。

            自分の病気に対するメモも含めて、調べたりしたことを残しておきます。

            詳細はもっと専門的なところでどうぞ。

             

             

            ■「前庭神経炎」とは?

             

            (通常片側の)耳内の前庭器官が急激に障害され、めまいを突発的に起こす病気。
            症状は、回転性のめまいという、一番えぐい症状として現れ、同時にしばしば吐き気や嘔吐、冷や汗を伴います。
            また激しい眼振が生じます。これが「前庭神経炎j」の重要なポイントだとか。
            自分も左から右にピクピク動いていた、と嫁さんに言われました。

             

             

             

             

            上図:一番判りやすかった、「めまいプロ」様から拝借いたしました。

            一応、自分に対するメモ替わりとしてここにはおいてはおきますが、本来うちのような医療知識の微塵もないドシロウトではなく、こういうプロのところに尋ねたほうが確実にええと思いますです。

             

            http://www.memai-pro.com/guidance/booklet/booklet03/p05.htm

             

             

            ■いつまで続くの?

             

            目眩は通常、数日〜1週間程度続きますが、その後少しずつ軽くなっていきます。
            ただし、発症後1週間程度は歩行に困難を感じます。
            およそ3週間くらいすればほぼおさまりますが、しかし浮遊感やふらつきは、しばらく持続する可能性があります。

             

             

            ■原因は?

             

            ウイルス感染が原因とも言われるものの、詳しくは分かっていません。

            自分も正直、よくわかってないです。

             

             

            ■他の病気とどう違うの?

             

            調べる限り、この前庭神経炎は、難聴や耳鳴りなどの聴覚の症状を伴わないのが特徴なようです。 
            耳の病気である「メニエール病」と違い、難聴、耳鳴りは生じません。
            また、脳卒中などによる眩暈にありがちな、意識障害、四肢麻痺(自分の場合は一時的なものだったようです)、言語障害などは伴わないようです。

             

             

            ■治療法は

             

            とにかく安静、とのこと。
            自分の場合、鎮静剤や眩暈止め、制吐止めなどの点滴を打ったらかなり楽になりました。
            また炎症抑制のためのステロイド剤も、場合によっては有効とのことです。
            (ソースはかかりつけのお医者さん)
            通常は余りの激しい眩暈のため、入院による治療を要することが多いようですが、自分は自宅での療養で治しました。
            ちなみに再発は余りないそうです。

             

             

            20160818 03

             

            これでかなり楽になりましたわ…。

             

             

            ■感想

             

            とにかく突然襲い掛かるのが怖い。
            これ、車の運転中に襲われたと思ったらゾっとしますわ。
            何せ、世界が回る。ものっそいスピードで回る。
            でも、確かに言葉もはっきり出るし、手指も動くし、耳なりもないし普通に聞こえる。
            ただ、眩暈だけがハンパない。
            そんな症状がほぼ1日ほど続き、頭を動かせない。立てない。
            ようやく動けるようになったのが、三日目ですかね。
            くるっと振り向いたり、時々よろっとふらつくことはあるけれど、一週間程度で治ることが出来ました。
            原因は…確かによく判らない。
            ウィルス?でも別に風邪ひいていたわけではない。
            ただし、夏バテと、飲み過ぎ、寝不足だったのは確か。
            そのせいで、免疫の低下があったのは否めないかも。

             

             

            20160818 02

             

             

            ■結論

             

            うん、やっぱり大事だよな、免疫力は。

             

             

            そんなわけで、皆様も暑い日々が続きますが、お大事に。

            2016.03.03 Thursday

            ■漫画批評:「三十路飯」1巻 〜自身の「生活」ドラマと他者とメシの三者が交差する「店」という空間(60点)

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              20160303 01


              妙齢女子による、外食グルメもの。
              その意味で、この作品は「ワカコ酒」と極めて対照的な作品である。
              似ている、のではない。
              対照的、なのだ。


              漫画評:「ワカコ酒」 〜「一人酒」ものの形態を借りて女子自意識が集まってる「女子会的なもの」(54点) | 黒崎正刀の、アシタノワライカタ


              すなわち、「外メシ」を「個とメシ」の空間とし、わずわらしい日常から極力隔離させることで作品性を成立せんとしている「ワカコ酒」に対し。
              この「三十路飯」において「外メシ」とは、様々な他者の「生」が交わる公共空間のことであるとしており、ゆえにそこが日常と隔たれず、いや寧ろ「外メシ」にこそ日常のドラマを求めようとしている。
              つまり、端的に言って何が対照的なのかといえば、「外メシ」は「個とメシ」のための空間なのか、「他者と一緒に食うメシ」のための空間なのか。双方はその点において、それが大きく違っている。
              無論、これは作品性の差異であって必ずしも優劣や良し悪しの論議でもない。
              しかし、その手法の結果「メシ」から人の「生」のドラマ性が漂白され、やもすればただの「グルメ共感もの」にしか機能しない「ワカコ酒」に対し(無論それは反面「特化させている」とも言えるわけだが)、後者ははるかに情動の躍動感と臨場感が伴い、生き生きとした作品に仕上がっている。
              然るにこの差異の一つは、「店」というものへの捉え方であるだろう。
              余り比較論を続けていても仕方あるまいからこの作品の優れた目線について以降、述べていきたいが、少なくとも「三十路飯」において「店」は、ただ美味いものを食わせればいい空間に終わっていない。
              どんな状況で、誰と、どんなときにいつ行き、どんな人に会うのか。
              それらの要因によりはぐくまれる物語こそが、「店」という空間を、ここでは成り立たせている。
              だから「店」は、「メシ」は、ここでは「生活」のドラマに完全に地続きである。
              そして「店」とは、そんな自身の「生活」のドラマと、自身以外の「他者」と、うまいメシの三者が交差する空間である。
              かくして「店のメシ」は、ここでは主人公の生活のドラマを支え、彩り、何かを突きつけ、きっかけを、ときにトラブルを、与えてくれる。
              つまりは、「店」という空間の中で繰り広げられる、都市社会を生きるなかで三十路独身女子が内にかかえる葛藤と自己整理がおりなす、うじうじした「生」のドラマ。
              やもすれば「食べログ」レポ漫画に終わりかねなかった本作の方向性をプラスに導いたのは、こうした「店」や「メシ」によって動く「生活」のドラマの躍動感を味方につけたことが大きかろう。


              20160303 02


              独身アラサー女子ものと外食「飯テロ」もの、といういかにもありがちな二つを短絡的にかけ合わせただけ。
              正直、現段階ではまだそうした辛辣な批判を跳ね返せるほど峻烈な個性やポテンシャリティに満ちているわけでもない。
              しかしそれでも本作の持つ、絵柄をも含めた独自のぬくもりをぼくは支持したいとも思う。
              と同時に、それによって描かれる「生」のドラマこそが「メシ」本来の美味さを引き立てるとともに、「外メシ」の魅力に作用してくれるものであるという点には、大きく共感しよう。


              美味そうな「メシ」だけを描けば、そこに面白い漫画が出来るのか。
              否。
              人の「生」のドラマの旨みなくして、「メシ」の美味さが伝わるわけがない。
              人の「生」のドラマを描かずに「メシ」だけ描いて、漫画が面白いわけがない。
              畢竟、「メシ」の美味さを伝えるもののは、人の「生」のドラマの力でしかないのである。
               
              2016.02.27 Saturday

              ■映画批評:「進撃の巨人」 〜作り手のセンスとアイディアと知性が致命的に欠けている(30点)

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                昨年最もぶっ叩かれた栄えある1本として知られる、この「進撃の巨人」の映画版。
                ようやくDVD化によるレンタルが始まったようなので、風邪でダウンしながら寝床で見ることにした。


                20160227 01


                この映画版について話す前に、ぼくの原作評価について少し触れたい。
                といっても予め率直に言っておくが、ぼくにおいてこの原作漫画の評価は、決して高いものではない。

                前にもどこかで書いたことだが、何故ぼくがこの原作を見限ったのか。
                それは、<世界>(社会の外側)の不思議に挑む話が、いつの間にかチンケなたかが<政治>(社会の内側)ごときの話に矮小化されてしまったからだ。
                世の摂理は、人智を超える。
                故に、人間万事塞翁が馬。
                神ならぬたかが矮小な人間の思いなど、世の摂理にいたるわけもなく、その前において到底かなうわけがない。
                元来、この漫画作品はそこをスタートにしていたはずだ。
                曰く、「世界は残酷だ」
                現実世界、「世の摂理」=「<世界>の不思議」は、そんな少年漫画にありがちな幼稚な万能感にこねくりかえされるほど都合よく出来てはいない。
                ゆえに、ときとして世の摂理は、人智とは関係なく無慈悲な災いとして現れる。
                元来、「巨人」とはそういうものの、世の摂理が人間に与える理不尽さの象徴だった。
                理不尽なるものこそが<世界>であり、故に「世界は残酷」なのだ。
                と、ぼくはそう理解し評価していたのに、10巻を過ぎたあたりからだろうか。
                いつしかこの漫画は、所詮は小さな人間の都合やゴタゴタというチャチな「政治」の物語に貶められてしまい、それに落胆したぼくは、以降この原作作品への評価を省みることにした。
                そして、そうなった身で改めて冷静に、この原作に向かい直すと。
                考えてみれば、この作品はそうした「世の摂理」=「<世界>の不思議」を認めつつも、しかしそれはただの情動の可燃剤としての「ネタ」でしかなく、つまりはそんな「世の摂理」を万能感で「駆逐したい」という願望に基づく漫画でもあったたことに、今更ながら気付くのだった。
                そう、何のことはない、この原作は元々、都合よくいかない<世界>に対し幼児的万能感がダダをこねている漫画でしかなかったのではないか。
                詰まればこの漫画作品に最初から漲る情動の激しさと初期衝動性は、そうしたダダっ子による幼児的万能感の叫びでしかなかったのだ。
                そう気付くと、さらに本作に対する熱が冷め、完全に読む気を失ってしまった。


                さて、こうしたぼくの原作に対する比較的批判的な立場を明らかにしてから、いよいよ映画版に話を移すとしよう。


                (あらすじ・解説引用
                人間を捕食する巨人と人類との壮絶な戦いを描いた諫山創の人気コミックを基に、『巨神兵東京に現わる 劇場版』などの樋口真嗣が実写映画化したアクション大作。(略)
                00年以上前、人間を捕食する巨人が現れ、人類のほとんどが食べられてしまった。
                生き残った者たちは巨人の侵攻を阻止すべく巨大な壁を3重に作り上げ、壁の内側で暮らしていた。
                エレン(三浦春馬)やミカサ(水原希子)もそんな中の一人だった。
                そんなある日、100年壊されなかった壁が巨人によって破壊されてしまう。
                引用ここまで)



                20160227 02


                映画評論家の前田氏から輝かしい低評価を受けたことで、監督との論戦…の体すらなっていない、低次元なdisりあいがネットで繰り広げられた本作。
                個人的な意見を一言だけ残すならば、試写会へのインビの行方なんざ、はっきり言って我々にとっては全くもって微塵の欠片以下ほどにどうでもいいし、そんなことより真っ当な評論家ならもっと鋭くその「ダメ」さに迫り、「批評」で答えるべきだろう。
                とはいえ、それはさておいて世間でもことさら駄作との評価が知られる本作の、ではどこが一体本当の意味でダメなのか。
                あるいはどこが本当はそうではないのだろうか。
                以下、ぼくなりに分析し、批評してみることにする。


                結論から言えば、この作品は、色々と足りていない。
                言ってしまえば「出来損ない」なのだが、ただそう言って片付けてしまうのも一方で勿体無いほどに、「色々なものが足りてない」。本作への評価は、まさにその一言に尽きる。
                尤も、その足りないもののなかでも致命的に不足しているのは、脚本を勿論含めての、作り手のセンスとアイディアと、そして致命的なまでの知性に他ならない。
                もっとやり方があったはずだし、少なからずそこにまなざしを惜しくも向けていたはずなのに、余りにもそれを食い、いやかじり損ねた。それこそ、このヒロインの腹のように。
                その結果、「ツッコミどころ」しか語るところのない映画になってしまった。
                語られるべきところを語れない作品になってしまった。
                実はそれこそが、本来的な、本作最大にして本質的な問題点である。


                20160227 04


                まずは、評価すべき「惜しい」点から話そう。
                自意識をこじらせた痛々しい主人公像だが、元々の原作もさほど変わってないので、それはそれでいい。
                それより、そんな彼は、しかしその自意識で「ここではないどこか」を見ようとしている。
                若者特有な社会の不自由さへの鬱屈と焦燥、檻に閉じこめられて生きているような息苦しさを抱え、そしてそんな「今ここ」を離れた、そう、高い壁の向こうに本当の自由があるのだと、そういう「ここではない向こうのどこか」にある「自由」を、彼は求めている。
                そんな、まあよく(?)言えば「超越系」、悪くというか、フツーに言うなら若さゆえの勘違い。
                ベタというか今やカビ臭いとも思えなくもないが、しかしその描写を序盤で重きをおくべく試みられた(注:成功している、とは言ってない)ことについては、ぼくはある程度評価しておきたい。

                で、これを踏まえてこその、「シキシマ」の存在である。
                世での賛否、というか「否」の最大要因を担うとおぼしき映画版オリジナルキャラの彼であるが、ここでの彼は誰しもが見てすぐ判るように、知恵を与える蛇(悪魔)の役である。
                「わざわざリンゴなんてヒントなくても、バカじゃなけりゃ誰でもわかるっつーの(笑)」
                と苦笑するしかない使い方だが、それでもここにおいて主人公に「知恵」を手にさせ「ここではないどこか」のための自由を求めて戦う、という目的意識を与えようとしたこと自体は、それなりに興味深くもあるところだ。
                結果、「駆逐してやる」という叫びは、原作的なダダっこによる子供じみた万能感の叫びから解き放たれ、「ここではないどこか」の自由を求めるという、よりこの物語の本質に向けられては、一応いるだろう。
                神の意思=「世の摂理」=「巨人」。
                それに抗い、「自由」を得るため、蛇からのリンゴを食べる。
                それをはっきりと示したところは、やはり視点として評価したい。


                と、ここまではいいのだ。
                しかし本作がいただけないのは、そうした試みが完全に失敗、破綻している、あるいは稚拙過ぎて描ききれていないところだ。
                恐らくだがその最大の原因は、第一に、ハンパな脚本の浅さと拙さであり、第二に、その意味すら把握出来なかった監督側の力量不足にあるのではないか。
                いずれにせよ、かくて出来上がったものはそうした志がおよそ活かされることのない、ただの安物モンスターパニックに毛の生えた程度のシロモノになってしまった。
                だからここにはほぼ、何も描かれていないのも同意だ。
                そして実際、この映画からは先のような本来の意志が何も伝わってこない。
                それを表すかのように、事実ネット上では、これまでしばしば本作をめぐっての「つっこみどころ」があちこちで語られてきた。
                いきなり始めるラブシーン、然り。
                戦場で大声で叫ぶ主人公。然り。
                無論、それらの言いたいことは、判らぬでもない。
                だが、いや「だからこそ」ぼくは言いたいのだ。
                本作における本当の問題は、こうした「つっこみどころ」などではなく、本作の「そこしか語れない」ところ、語ろうとしてもスカスカ過ぎて語るに足らない点こそにあるのだ、と。
                少なくとも、本作が当初に向けていたまなざし自体は、先の通り別段間違ってはいない。
                にも関わらず描き損ねたのは、そこに対する作り手の意識の及ばなさであり、冒頭で述べた通りのセンスと知性不足であり、またそれをどう物語として活かすかのアイディア不足に他ならない。
                はっきり言うが、足りなかったのはハリウッド並みの予算でも技術でもない。
                そんなもののせいにする一方で無自覚な、お粗末すぎるテメエのセンスとアイディアと知性である。


                20160227 03


                以上、ここまで批判的に書いてはみたが、しかし本当に惜しい、とも同時に思うのだ。
                冒頭のように、原作の子供じみただだっこ万能感への違和を意識しておきながら、しかし結局はしょうもない三流モンスターパニックものになってしまった。
                「ここではないどこか」にあるであろう「自由」を求める闘争と逃走のドラマを作るはずが、くだらないつっこみどころものに終止してしまった。
                この点を本来作り手はしかとここで省みるべきはずだったのだが、結局はそうならず終いに終わってしまった。
                さて、そんな何もかも足りていない本作には、これに続く続編があるようだ。
                ではそこでこれらの問題を、どう回収されるのか。
                いや、恐らくは修復もろくにされぬまま「何もなさ」を、どう続けているのか。
                怖いモノ見たさと、もう正直どうでもよさを半々に抱えながら、期待値ゼロのままで待つことにしよう。

                 
                2016.02.06 Saturday

                ■漫画批評:「新米姉妹のふたりごはん」 〜「料理」をセックスとした、緩やかな百合萌え漫画(60点)

                0
                  然るに本作は、グルメ漫画では、厳密にない。

                  と言うと、そうだこれは料理漫画だ、と応えたくなる人もかなりいるのだろう。
                  が、しかしここでぼくが説きたいのは、それとも少し違っている。
                  では何か。
                  本作の本質とは、「料理」をセックスとした、緩やかな百合萌え漫画である。





                  「食べる」行為は、本来的に、エロい。
                  「食べる」ことは、だから本来的にセックスに通じる。
                  「食べる」ことは、欲のままに暴力的に「食べ物」との関係性を貪る行為のことである。
                  つまり「食べる」ことで、つまりは「食べ物」とのコミュニケーションに触れることで、ぼくたちは自らの欲と暴力性に向かい合う。
                  だからこそ、「食べる」こととは「生きる」ことであり、またそれに向かい合うのは、「生きる」ことに向かい合うことと同意だ。
                  そして、「食べる」ことを通じて他者と通じ合うこととは、そうした欲や暴力性の共有によるコミュニケーション行為だ。
                  「食べ物」を介して、互いの欲や本性に触れる。また、それを重ねて、関係性を構築していく。
                  「食べる」ことは、だから本来的にセックスに通じる。

                  こうした「食べる」ことの持つ「エロさ」を利用したグルメ漫画とエロマンガのリンクは、90年代辺りからの割と知られた手法でもある。
                  近年だと週刊少年ジャンプ連載の「食戟のソーマ」などがその筆頭として挙げられるかもしれない。
                  だが、ぼくに言わせればあの漫画がやっているそれは、少年漫画らしい幼児性に基づいた落城ゲームとしてのセックスである。
                  いや、セックスというより、それは独りよがりなオナニーであり、「射精」でしかない。
                  無論それはそれで別段あっても構わないのだが、しかし一方で、だったら愛のコミュニケーションとしてのセックスだって、あってもいい。
                  「愛のコミュニケーション」ドラマとしての、「食」の漫画。そういうのだって、あってもいい。
                  「食」を通じて、愛を育む。
                  言葉以上の、情感や価値観、生き方を、セックス=「食」というコミュニケーションによって相互理解し、共感し、関係性を育む。
                  そういう「食」漫画だって、あってもいいのではないか。
                  本作がどうであるかはさておいて、まずはそう考える。


                  さて、そこで本作である。
                  この漫画は、かくもいうほどに「食」=「エロ」を押し出してはいない。
                  というか、そうした一見しての「エロ」要素を、実のところ相当に排除させている。
                  だから、ごく普通に本作を読めば、「料理」はセックスだ、などと思うことはまずないだろう。
                  にも関わらず、では何故本作において「料理」が性的行為になっているのか。
                  そこに作用しているのは、本作が意図的に醸させている「百合」臭さに他なるまい。
                  「百合」が元来的に含有するセクシャリティが、はからずも「食」のコミュニケーションドラマにセックスを結び付けている。
                  決して肉体関係を結ぶわけでもないどころか、エロチシズムを除去しているにも関らず、むしろ結果的にこうした「エロ」要素の排除自体がかえってそれを呼び込んでいる。
                  結果、本作において「百合」に浸る行為自体が、「食」を通じて美少女が結びつくという擬似的なセックスを彷彿させていく。





                  しかし、だ。
                  本作のこうした「百合」モノ的なありようは、かなり、というか相当に「キモい」ものであることは間違いない。

                  そう、ぶっちゃけこの漫画は、基本、キモい。
                  だから正直に言えば、その第一印象は決してよいものではなかった。
                  断絶空間に閉じこめるために親や家族まで取り除き、異性(要はチンコ)に触れさせないようブロイラー化された主人公達。
                  無菌培養のような想像空間のなかで、しかしそこでも(先の通り)「性」を剥奪し、エロを除去したうえで、「食」だけを与えて疑似セックスさせる。
                  ここでの「百合」とは、他者のチンコに対する劣等感や臆病さの現れであり、そうした他者性のノイズを除去した「自己しか見えない」空間のなかで性的に戯れていたいという欲望の産物だ。
                  今更ながら、そうした「百合萌え」モノの欲望を支えている社会的未熟性の抱えるエゴイズムが、ここには確かに焼き付いている。
                  つまりはそんな、性愛コミュニケーション能力弱者が不安やストレスを感じないようこしらえた、リアルの女こわいこわい「食」漫画。
                  その意味で、ぼくは本作を全面的には肯定しない。
                  そしてこの基本姿勢は、今でもそう大きく変わってはいない。

                  しかし、それでもなお本作を評価するのは、まず一つめとして、そうした「百合萌え」モノのもつ娯楽性を全く理解出来なくはないからだ。
                  こうした「萌え」ものの持つ、マユの中での戯れに浸っていたいという欲求を、ぼく自身完全否定まではできないからだ。
                  と同時に、そしてそれ以上に。
                  本作収録の解説にもあるように、本作は「食べること」ではなく「料理すること」に比重を置いている。
                  グルメ漫画というより料理漫画。そうした本作への指摘は、確かに正しかろう。
                  つまりそれは、本作においては「料理」をするという行為こそが、セックスに至る前戯も含めた性愛コミュニケーションの道のりになっている、ということだ。
                  そしてズバリこの点こそが、ぼくにおいて本作を評価する大きなポイントである。
                  それは例えば、先の「食戟のソーマ」のような射精だけの幼稚なエロによる、オナニー「食」漫画とは全く異なるものだ。

                  「料理」による、「食」。
                  それを描くことで、本作は「愛」による「セックス」を、〜作り手の意図はさておき〜そこに重ねようとしている。
                  「料理」とは、身体的欲求と快楽性に結びついた関係性の構築行為である。
                  他者である違った互いの情感や価値観、生き方を、「食」という欲に向かう行為によって認め合い、受け止め、理解し、関係性を、つまりは「愛」を育む。
                  ここにおける「料理」とは、そうした役目を担っている。
                  「料理」という、「愛」の構築。
                  先のような「キモさ」を例えさっ引いたとしても、ぼくが本作を評価するのはその故である。
                  2016.02.03 Wednesday

                  ■映画批評:「Dear ダニー 君へのうた」 〜よくできたオヤ自分探しハートウォーミング・ドラマ(70点)

                  0
                    20160203 01


                    なんともオッサン向けな、オヤ自分探しハートウォーミング映画である。
                    同時に、なんとも色濃いオッサン・ファンタジーによって構成された作品だ。

                    まず、往年の持ち歌だけで、年老いても絵に描いたかのサクセスライフを一線で送っていられるという、いまどきの厳しいロック界ではありえなさげなロックスター・甘口ファンタジー。
                    そしてそんな大スターの若かりし頃に、往年のジョン・レノンから手紙が届いていたという、実話というよりおよそお伽話に基づいたかのファンタジー。
                    しかもそんなアル・パチーノ演じる大物ロックスターの実態たるや、しかし気さくでチャラいお調子もので冗談も愛想も一級というどうみても高田純二です本当に以下略っぷりで、終いにはそこらの田舎のオバチャンにも手を出しかける勢い。
                    って、おっとこれはオッサンじゃなくてBBAファンタジーか。
                    それはそうとして、で、これらによってもたらされる、大金持ちだからこそ可能なとケチをつけたくなるかの難病や育児の問題解決、家族再生のありがちドラツルギー・ファンタジー。
                    本作をレイヤーとして成しているのは、そうした数種の老年向けファンタジーであり、またこれらこそが本作の「感動」を動かしている要素に他ならない。


                    20160203 03


                    (あらすじ引用
                    作曲活動から離れて何年もたち、人気アーティストとしての盛りも過ぎてしまったダニー・コリンズ(アル・パチーノ)。
                    そんなある日、マネージャーから古い手紙を見つけたと渡される。
                    それは駆け出しだった43年前の自分にジョン・レノンが送ってくれたもので、富や名声に自分を見失わず、音楽と真摯(しんし)に向き合うようにとつづられていた。
                    それを読んだ彼は人生をやり直そうと決意してツアーをキャンセルし、一度も会ったことのない息子を訪ねるのだが…。
                    (引用ここまで)


                    「40年前の当時にもし、ジョン・レノンからの手紙を受け取っていたら?」
                    「だったら俺は、このようなクソのような数十年間を生きなかったのではないか?」

                    ベタな問いかけは、一見これまでの自己否定の物語に読み取られかねないが、その実、これはその逆である。
                    むしろ本作は、そうした、かようにありえたかもしれぬ選択や生き方への思いを支えているのが、他ならぬ「今」までの歩みであることを伝える作品だ。
                    とどのつまり、ここにあるのは自身の「今までの歩み」に対する肯定ベースドな「見つめ直し」であり、「認め直し」あるいは「認め直されあい」のドラマである。
                    そもそも、彼がいう「クソのような数十年間」は、本当に「クソ」だったとここに描かれているだろうか。
                    違う。
                    事実、「クソ」によって作られたという「今」だからこそ、彼はそこにある幸せをつかむことが出来るのだ。
                    そしてそんな彼の生き方を、無論本作は決して否定していない。
                    いや、あまつさえビッグスターにふるまい、人々に分け与えることを惜しまない主人公の「今」を好意的にすら描いているだろう。


                    20160203 04


                    ここでもう少し、本作の最大構成要素たるオッサン・ファンタジーに向かってみよう。

                    ジョン・レノン。
                    本作においての彼の存在とは、70年代的な素朴なビッグスター時代への憧憬であり、またロックスター・ライフ幻想やそこへの(音楽をも含めた)ノスタルジアが混ざり合った一種の象徴だ。
                    無論そうしたノスタルジー自体、「ボクラの生きてきた道への自己肯定」という生暖かなオッサン・ファンタジーにより支えられている。
                    そんなジョン・レノンからの手紙は、確かに主人公ダニーを大きくゆさぶろう。
                    あのときをきっかけに、もしかしたら違う人生がありえたのではないか。
                    そんな世のオッサンなら誰しもが抱くであろう思いを、本作はまず、ジョン・レノンというオッサン・ファンタジーのアイコンに重ねてみせる。
                    かくて彼は、人生の修復作業に向かう。
                    しかし。
                    「劇的なライフスタイルの一新」でも、「第二の人生へ」でもなくそれは、本質的には先にも触れたように今までの自身の歩みへの「見つめ直し」、「認め直し」あるいは「認め直されあい」の行為である。
                    だから、「人生のやり直し」だと大見得をきった彼がやることはせいぜい、新しい曲を書く、あるいは家族に会う、というそれだけだったりする。
                    だが、そこがいい。それでいい。
                    そんなオッサンの「たかが一歩」が、本作の本質的魅力に向かっている。
                    その「せいぜい」らこそが、彼の自己の歩みへの「見つめ直し」、「認め直し」あるいは「認め直されあい」の機会となっていくさまは、なかなかの見どころだ。
                    そしてそれこそがオッサン流の自分探しであり、だからこそその「今」までの歩みのなかに幸せがあると、本作はそう訴えている。特に世のオッサンたちに。
                    言うまでもなく、そこにおいては「ジョン・レノン」も「音楽」もただのエサでしかない。


                    20160203 02


                    自分の歩んできた人生を、少しだけ省みつつそんな自分の「今まで」を見つめ直し、そこにあるものを受け止め、受け継ぎ、「今」を立ち直す。
                    幸せの実感は、そのなかにこそある。
                    この主人公は、まさにそんな「ボクラの生きてきた道への自己肯定」と、そのための見つめ直しというオッサン・ファンタジーの愛すべき、共感すべき体現者として、ここに描かれている。
                    本作は、そんな出来すぎなくらいによく出来た、気持ちのいいオヤ自分探しハートウォーミング・ドラマである。
                    2016.01.25 Monday

                    ■映画批評:「ヤクザと憲法」 〜「憲法」の映画じゃなかった(60点)

                    0
                      最初にはっきり言っておくと、この「ヤクザと憲法」というタイトルの映画は、「ヤクザと憲法」の映画では、実はない。
                      少なくとも、「憲法」について本作は何かを語る作品では、全くといっていいほどに、ない。


                      20160125 01


                      憲法改正が俎上に上げられるようになったここ数年になってようやくそうした法哲学の基礎知識が知られるようになった感があるが、そもそも近代立憲主義において、憲法とは、民主主義国家において統治権力を縛るための最高法規のことである。
                      つまり、憲法とは統治権力、「政治」を縛りくくるための、国民主権における手綱のようなものである。
                      よって、憲法は、「政治」の私的領域への介入を制限する。
                      これこそが「人権」だ。
                      つまり、そもそも「人権」とは「政治」領域についての憲法概念である。
                      で。
                      恐らく(ていうか想像通りなのだろうが)こうした法理の基礎知識をよく理解せぬまま、ふわっとなんとなく勢いだけで「人権」なるものを社会派ヅラで取り扱ってみせて、「じゃあテーマは憲法じゃね?」と結論づけたのが、このタイトルなのだろう。
                      だから、それらしいものが、ここから何ひとつ見出だせない。
                      かくして、やれ「憲法」などと大上段に構えてみせた、その問題の本質はむしろこの社会のありようや差別の実態についてだったり、司法、警察権力の横暴さだったりする。
                      とどのつまりこれは明かな名前負け映画でしかないのだが、しかしその一方でその「でしかなさ」に終わらない見どころをも備えているのもまた事実である。


                      20160125 03


                      このところ連日満員御礼という、本作。
                      DVD化は難しかろうとの声に煽られて、立ち見も辞さぬ盛況の中、ぼくも中野くんだりまで見にいくことにした。
                      (注:柏から中野は、映画見て酒飲んでうち帰るにはちとダルい位に遠いレベル)
                      なるほど、これは確かにある意味でレアではあるが、安っぽいドキュメンタリー「映像集」である。


                      (本作解説引用ここから)
                      「暴力団排除条例」などの施行がもたらしたヤクザの暮らしや考え方の変化について、大阪の指定暴力団「二代目東組二代目清勇会」に取材したドキュメンタリー。
                      1990年代から2000年代にかけて法律や条例が制定されたのを機に、銀行口座の開設不可、自動車保険の交渉がこじれたら恐喝で逮捕されるといった状況になっているヤクザたちの現実を活写する。
                      (引用ここまで)


                      20160125 02


                      普段あまり知られることのない、ヤクザの実態。日常。
                      そこにカメラを向けて、赤裸々に捉えているのが、この作品だ。
                      というか、その魅力はもうそれ「だけ」に尽きる。
                      生々しいヤクザの、その「日常」に触れる。
                      それだけが、この映画の価値のおよそすべてといってもいい。

                      一応ながらも、おおまかながら本作が捉え「ようとしている」社会派テーマは、大きく3つある。
                      一つは、社会からこぼれたものに対する、ヤクザという現実的な受け口のその実態について。
                      もう一つは、そうしたヤクザ=社会からこぼれた存在の、その孤独な生き方のリアリティ。
                      最後の一つは、そんなヤクザ=社会からこぼれた存在に対する、警察という統治権力の対応について。

                      なるほど、各々の言いたいことは、テーマとして決して判らないでもない。
                      確かにヤクザという社会の受け口は必要なのだろう。
                      またそこに生きる者の過酷さや孤独さにも、痛感はできる。
                      ぼくらはただのイメージだけで何かヤクザというものを捉え過ぎるが、そこにあるのは同じ一人の生々しい人間なのだということも、この作品は伝えている。
                      加えて、法をたてにガサ入れを行い、治安維持をご名目に権力を行使する警察の姿。
                      ありうるだろうな、とは思うものの実際にそれが行われている実態映像は、そうそうドキュメンタリーとして観れるものでもないのかもしれない。

                      しかし、だかといってそれらが何か社会の、ましてや「憲法」について深く考えさせられる機会を与えてくれるかというと、それは残念ながら別問題だ。
                      結果、本作はただレアな映像だけを集めた「映像集」に過ぎず、そうしたメッセージ性を伝えることはかなり難しい。
                      つまり、所詮は地方テレビ映像、映画作品として観るには非常に拙く、未熟だ。
                      だから本作が言いたいことなるものも、所詮は「後出しゲーム」程度にしか見えてこない。
                      なんか「人権」っぽいことをテーマにして編集できそうだから、ヤクザと人権、いや、やっぱ憲法にしね?
                      そんな軽薄な声が聞こえてきそうな勢いだ。
                      何かを訴えたい、そういうドキュメンタリー映画ではなく、取材の突撃振りがすごいね、と感心する。
                      これはただ、そういう類なだけの作品だ。
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                        後藤裕次 (11/28)
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                        干し芋 (10/19)
                      • ドアノブが回らなくて開かないドアを開ける方法
                        あ (09/27)
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