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2016.09.25 Sunday

■映画批評:「君の名は。」 〜要するに、「やりすぎ」(60点)

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    20160925 04

     

     

    1983年公開の、「時をかける少女」(原田知世主演、大林宣彦監督)
    30年以上も前の作品なので、さすがに今見るといかにも昭和な古めかしい時代感を否めない上、つたない演技やチープすぎる演出、陳腐なストーリーと見るに耐えない気恥ずかしさすら覚えるのだが、しかし。
    それでも、何故この作品がかつて名作といわれたのか。
    ずっぱまりな、原田知世の透明感ある可憐な存在感。学園タイムスリップSFものという方向性。ラベンダーや理科室などのノスタルジックな素材の扱い。尾道の情緒ある風景…。
    こうしたよく言われる魅力要素も勿論さることながら、あのラストもまた実に素晴らしかった。
    互いにひかれながらも未来の世界に帰還しなくてはいけない思い人の薬学博士「一夫」と、決まり上、やむなく記憶を消されてしまう原田知世演じる主人公の女子高生、「和子」。
    しかもその「一夫」からは、例え次に会うときがあっても、自分が誰だか判らないだろう、とも伝えられる。
    そんなことはない、絶対に忘れない。そう強く誓いながら意識を失っていく彼女の11年後が、他ならぬそのラストシーンだ。
    大人になった彼女の姿は、大学の薬学研究所にある。
    ただそれだけでわざわざ主人公に語らせずとも、ああ、彼女は忘れてしまったけれど何故か心に引っかかる思いのためにこの道を選んだのだな、と観客にも伝わってくる。
    いや、「わざわざ語らせる」よりはるかに能弁に、効果的にだ。
    と、廊下で何者かに会う。そう、まさに未来から来た先の一夫である。
    しかし記憶を失った彼女は、それに気付かない。気付けない。
    だから、「あれ、どこかで会ったような」と一回振り向いただけで、去っていってしまう。
    あんなに強く思ったにも関らず、忘却し、「少女」から「大人」になった彼女は、気付けない。思い出せない。すれ違ってしまう。結ばれない。届かない。
    わずかほんの数分程度のラストシーンだが、静かにやりとりされるそれらだけで様々なことが静寂に、しかし明確に伝わってくる。
    ああ、成る程、確かに「大人になる」ということは大切な何かを忘れ、何かを失い、代わりに得ていくことなのだな。
    だからこそ、そうした思春期の思いのかけがえのなさが、輝きが際立つのだな。
    それが伝わるからこそ、結ばれずにすれ違い終わりがちな少女の初恋のはかない淡さが、切なさが、いっそうに増すのである。


     

    20160925 02

     

    (尤も、本当に今見ると結構厳しいものがあるのも事実だが)

     

     

    さて、のっけから長々とそんな話をしたのには、当然理由がある。
    目下話題となっている、新海誠監督作品「君の名は。」。
    一言で評するなら、この作品は色々な意味で「やりすぎ」、である。

     

     

    20160925 01

     

     

    ストーリー自体は、取り立てて何というものでもない。
    ベースは、ただのボーイミーツガール。
    しかも学園ラブコメのテッパン「思春期男女入れ替わりもの」という古典的使い回しを用いながら、しかしそれだけに終止することなく、時間や彗星や神道やらといったファクターをうまく取り込むことにも成功している。
    組紐のメタファーも、一応、それはそれで悪くない。
    断っておくが、決してダメダメな作品だというわけでもない。
    「男女」という対称性と連動して対比される「都会と田舎」。
    それらの風景を描いた映像もまた、見応えある美しさに満ちている。
    加えて、各所でのアングルのアイディアも凝ったものだ。
    そうした意味では、まあよく出来た映像作品だとも言えるだろう。
    だが、やり方が余りよろしくない。
    まず何より、作り手が気付いているのか知らないが、全体的に「やりすぎ」が目につく。
    結果出来たものは、少年ラブコメに毛の生えたような「童貞のかんがえたらぶすとーりー」。これが何とも残念だ。
    そしてその何よりの象徴であり権化が、このラストである。
    ネタバレになるから余り触れたくないが、はっきり言って本作のラストは悪手であり、エンディング前15分は蛇足以外の何者でもない。

     

     

    20160925 03

     


    映画とは、全てを言葉やセリフなどで解説させるものではない。
    表情や立ち振る舞い、たたずまい、風景、シーン全てを駆使して伝えるべきことを映像表現として伝えるものだ。いや、だからこそそれが際立ったメッセージとして効果的に伝わるのである。
    映画とは、観客の願望のみを見せるものではない。「みたいもの」ではなく、「かようなもの」、「世は確かにこうなっている」というさまを見せるものだ。いや、だからこそ感動が説得力を増すのである。
    当然ながら、アニメーション作品もまた同様だ。
    然るに本作は、それらを「やりすぎ」で台無しにしてしまっている。

    例えば。
    あんな幼稚な告白をせずとも、二人が相思相愛であることは十分に伝わってくるだろう。
    あるいは、それをあんな陳腐な言葉で伝えるより、二人が思いを寄せ合っていることを訴える効果的な手法はいくらでもあっただろう。

    はたまた、「忘れてしまったが胸に何故かひっかかる思いの道に生きる」ことは、別に主人公にセリフとして解説せずとも、その姿を見せるだけで十分に伝わってくるだろう。例えば薬学研究士になって恋人を作らず生きている先の「時をかける少女」の主人公の像のように。
    それを理解せず、「語りすぎた」結果、本作のラブはあたかも万能感にまみれた子供の願望劇のごときおままごとになってしまった。
    しかも一事が万事、本作の「やりすぎ」さは随所に働いている。
    音楽の使い方も、また然り。

    そしてトドメの、あのラストである。

     

     

    20160925 05

     

     

    「時間」は必ず「忘却」を生み、はぐくむ。
    畢竟、「大人」になる、とは忘れていくことだ。
    大切だった何かを忘れ、失い、かわりにより大切なものを得ていくことだ。
    「大人」になる、とはそのように輝かしき「思春期」の思いをあたかも「夢」のように、忘却していくものだ。
    だからこそ、そのはかないまでに「忘れていくもの」がかけがえのないものだと思えるのだ。
    気付けなくなり、思い出せなくなり、すれ違い、結ばれず、届かず、「忘却」して人は「大人」になる。

    そう、冒頭で映画「時をかける少女」のラストシーンを例に出した通りだ。
    もしそうした「リアリティ」よりそれらに抗う「ファンタジー」を描けるからアニメなのだと言いたいのであれば、ならばそのぶんだけ、つまりは「かようなもの」を描かぬ分だけ、説得力に欠けた子供の自己願望的な「童貞のかんがえたらぶすとーりー」に向かうことは否めまい。
    無論、それを作り手が知らなかったわけではなかろうが、結果的に「やりすぎ」がそれを許してしまった。本作の失敗はここにこそある。
    「やりすぎ」はやはり、禁物なのである。
     

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