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2017.06.24 Saturday

■映画批評:「ちょっと今から仕事やめてくる」 〜目の付け所だけで、「命の物語」パートは余りにお花畑(30点)

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    そもそもブラック企業の問題は、複合的な社会要因が絡まって生じている問題であるため、そう単純に語りきれる類の話では、実はない。
    ぱっと考えても、マクロ経済的要因、あるいは産業構造的要因、生産性の要因、日本企業の労働観の要因、過剰なサービス訴求という社会要因…と、このくらいの理由がすぐに挙げられるだろうし、しかもいずれにおいても根の深い問題ばかりだ。

     

     

    のっけから小難しい話で申し訳がないが。

    確かにアベノミクス以降、企業の売上は上昇している。
    しかし問題は、売上ではなく企業の収益が上がらないことにこそある。
    尤もそれは至極当然な帰結であり、大体、アベノミクス的な金融政策と円安誘導、法人減税で企業売上が上がらないわけがないのだ。
    だから地方への設備投資は進まないし(だから地方の雇用問題はずっと深刻なままだし)、実質賃金の上昇もそうそう進まない(俗に言うコストプッシュインフレ、てやつだ)。
    加えて言うなら、日銀による金融市場での需給ギャップは解消されたものの、「政治」の仕事である成長戦略は、今なおクソばかり。これでは産業構造改革など到底かなうわけがない。
    (無論、そこには日本経済のサプライサイドの生産性問題と社会保障の問題が被さってくるのだが)
    さあ、長いデフレによる低成長、低収益で賃金上昇もままならない。依然パイはいっそう小さくなるまんま。これじゃ企業における雇用問題なんて改善されるはずがないではないか。
    まずは、これがブラック企業を温床化させている、最もマクロ的目線から見た日本社会の経済的要因だ。

     

     

    もう少し細かく見てみよう。

    さらに、ここ20年強で「終身雇用」や「年功序列」といった戦後経済成長期の雇用システムが完全に幻想として消えうせ、長期安定雇用が不安視されるようになる。
    (尤も、よく言われることだが元来的に「終身雇用」などは一部大手企業における幻想でしかなかったのだが)
    結果、グローバル化により単純労働の担い手を非正規雇用者にまかせるとともに彼等を人件費削減により使用し、一方で長期安定雇用不安をダシにしてホワイトカラーも「実力主義」という縄を首にかけられ労働を強いられることになった。

    無論その裏には、存続のためにコストカットやサービス残業を余儀なくされている企業の実情というのもあるだろう。実際問題、赤字決済で経営破綻をまぬがれるには、正社員の労働力を酷使するのが最も簡単だ。

    恐らく同様の悩みは、日本の企業の大半を占める中小企業なら、どこでも少なからず抱えていることだろう。

    しかもこうした中、「契約」概念がキリスト教圏に比べ未熟な日本社会においては、企業側が強力な職務権限をもつ雇用契約形態となっていることを何故か許してしまっており、そこに歯向かうことが現実的に難しい状況となっている。

    つまりこれによって安定的な雇用保障というエサをブラつかせ、過酷な業務を追わせることがたやすくなっている、ということだ。

     

    更に言うなら、市場の問題もあるだろう。

    長引くデフレの中で、日本では低価格、過剰に高いサービスが当たり前となってしまった。

    その結果、そのサービスを満たすために労働時間は自ずと長時間化し、ブラック企業が跋扈することになる。

    いや、「ブラック企業」などというラベリングはさておき、とどのつまりが(企業規模の大小に限らず)日本企業のいずれもがもれなくブラックな要素を構造的に孕んでいるし、そういう社会に我々は生きている、ということだ。
    そもそも論にもなるが、往々にして日本のこの社会は敗者に再チャレンジを与えない作りになっている。
    この問題は先のような経済事情の影響からか数十年前よりさらに深刻化しており、レールからこぼれることへの不安、パイを奪い合って「うまく生きること」の社会的要求はさらに上昇する一方である。
    このことはブラック企業社員のメンタルをがっちりと捉えており、この会社をやめたら次がもうない、イコール人生失敗だ、という恐怖となってとりついている。この映画にも描かれている通りだ。

     

     

    20170624 01

     


    (以下あらすじ)
    激務により心も体も疲れ果ててしまった青山隆(工藤阿須加)は、意識を失い電車にはねられそうになったところをヤマモト(福士蒼汰)と名乗る男に助けられる。
    幼なじみだという彼に心当たりのない隆だが、ヤマモトに出会ってから仕事は順調にいき明るさも戻ってきた。
    ある日隆は、ヤマモトが3年前に自殺していたことを知り……。
    (あらすじここまで)

    「YAHOO映画」より

     

     

    20170624 02

     


    さて。
    そんなわけで、逆に言うなら「ブラック企業」を描くことは、日本社会の様々な問題を描くことにもつながっているということになる。
    そういう意味でも、本作の当初における目の付けどころは、そんな悪いものではなかっただろう。
    描こうと思えばその先に材料が幾らでもある。このことは、上の通りちょっとばかり論点を軽く論えただけでも十分に見渡せるだろう。
    そして、結論から言うなら。
    本作最大の不満は、それをただの「命の物語」という情緒にあまりに傾きすぎたたため、社会への冷徹なまなざしを得られなかったことである。
    要するに、この作り手はそうした社会的な問題意識に対し、致命的なまでに疎く、絶望的なまでに興味がなさすぎる。

     

     

    …などといささか手厳しく評してしまったものの、前半はさほど悪いものでもない。

    たかが「会社」の問題を、人生の問題、人間の問題と捉え違えてしまう。
    たかが「会社」の問題が、自らの否定や絶望と捉え違えてしまう。
    こういう経験は、社会人なら誰にでもあるはずだ。
    過酷なブラック企業の実情は、なんとも迫るものがあるし、ブラック企業ならずとも何処にでもいるパワハラ上司、やりすぎ上司をもった身の辛さは、共感にやまないところがあるだろう。
    決して他人ごとと見ていられない、会社員の身ならば、本作を前にしてきっと多くの者がそう思うはずだ。
    展開上における多少(=相当)のわざとらしさ、くどさはこの際許容するとして、そんなブラック企業に摩耗され追い詰められていく主人公に対し、「ちゃんと眠れているか」と尋ね、案じてくれる友人の存在の重要さは、頷くところも少なくはない。
    本来的に包摂性を求めるべきではない「会社」組織への過多な帰属、承認欲求が、しかしブラック企業を利する結果になっている。
    これに対するカウンターは、私生活圏内における包摂性の調達にほかなるまい。
    その意味からも、「友人」や「家族」といったプライベート空間での包摂の確認こそが、誤った自己否定から逃れる道である。
    ここには確かに賛同もしよう。

     

     

    しかし、である。
    「命の物語」を余りに本作は寄り添いすぎたため、そこに描けるはずだった様々な題材に全く触れずじまいになってしまった。
    いや、そういう方向性なのだ、というなら百歩譲って、それでもまだよしとしよう。
    では、「命の物語」でかくして至った結末が、余りにイノセントなのは一体どういうことか。


    成る程、確かにそこに見出そうとした、「本当の豊かさとは何か」という社会意識は評価出来ないわけでもない。
    世界屈指の先進国である日本の社会が、何故これほどまでに豊かさを実感できないのか。
    およそ数十万人の大人は、ほぼ鬱病予備軍であるという異常な社会、それが現代日本というこの国の実態であるという事実、
    恐らくこのラストはその現実との対比を描こうとしたのであろうが、にしてはあまりに短絡的ではないだろうか。
    そして短絡的になってしまったのは、やはり作り手におけるそれらへの意識不足、とどのつまりは勉強不足に他ならない。

     

     

    20170624 03

     

     

    (以降ネタバレ注意)


    「周囲に流されて」入社したブラック企業を辞めた主人公は、また「周囲に流されて」外国に、それも自然の美しいベッタベタな後進国に「自分探し(笑)」に出る。

    正直言って、ぼくはこの陳腐な流れに少々、いやかなり辟易させられた。

     

    本作品内には言い訳程度にしか映されていないが、この国の現実だって当然ながら決して「希望の楽園」なんかじゃ全くないだろう。
    それどころか日本のような先進国にはない、貧しく過酷な社会が待っていることは容易に想像がつく。
    それも映さず、笑顔と美しい自然だけを映してノンキに、


    「でも、笑顔だけは日本より美しい」
    「本当の豊かさはここにある」

     

    などとは説得力皆無、短絡さここに極まれりとしか、いいようがない。

    はっきり言えば、このラストは余りにお花畑でお粗末、そして余りに無責任だ。

     

    なぜならば。
    突き詰めればこのラストが実は語っていることは、日本社会で生きることへの「希望」の見えなさでしかないからだ。
    これはつまり、観客を励まそうとして作ったこの物語は、それとは逆に絶望の提示にすら機能している、ということだ。

    エールを送ろうとした結果が、諦めろ、という現実の突き付けだという身も蓋もなさ。

    或いはそのつもりがないのかもしれないが、しかしここら辺の皮肉的なまでのアンビバレンスを、一体作り手はどう捉えているのだろう。
    出来の悪い映画、とまでは言わないが、しかしその自覚のなさが生んだ薄っぺらさがなんとも残念だ。
     

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